【新春特別インタビュー】ノーベル賞科学者 益川敏英が語る、いま、なすべきこと
「科学者である前に人間たれ」の言葉を胸に(聞き手 岡田知弘)

住民と自治2016年2月号より

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益川敏英(ますかわ・としひで)
名古屋大学素粒子宇宙起源研究機構長、京大名誉教授、京都産業大学益川塾塾頭など

岡田知弘(おかだ・ともひろ)
京都大学大学院経済学研究科教授。自治体問題研究所理事長。


戦争体験

岡田:昨年、安倍政権は安保関連法案を強行採決しました。そうした政治の流れに並行して、現政権下では大学など研究機関を軍事研究に巻き込む軍学共同の流れも強まっています。そこで本日は、戦争をなくすためのメッセージを送り続けているノーベル物理学賞受賞者の益川敏英先生にいろいろとお聞きしたいと思います。先生は、5歳の時に戦災に遭われたということですが、戦争に対する思いが研究にも影響を及ぼしているという印象をうけました。まず、先生の戦争体験からうかがいます。

益川:わたしは名古屋の鶴舞公園の近くの自宅で5歳の時に被災しました。焼夷(い)弾が大きな音を立てて瓦屋根を突き破って、1階の土間まで落ちてきて、コロコロと目の前を転がっていきました。あれが本当に破裂し、充填されていたなかの黄燐(おう りん)が飛び散って大火災を起こしていたら、たぶん、すぐそばにいたわたし自身も飛び散った発火性薬剤を浴びて大やけどをしたか死んでいたでしょうね。しかし、そんなものは子どもの記憶だからただスチール写真みたいに残っているだけです。子どもの時のことだから、怖くもなんともない。

ああ、あれが不発弾でなかったら、とそれがいかに恐ろしいことかを知るのは、物心がついたずっと後からのことです。

はっきりと生(なま)の記憶があり戦争を意識したのは、わたしの青春時代と重なり合っているベトナム戦争です。ベトナムを占領していたフランス軍が負け、撤退するまでの間ということで、1954年、休戦協定を結び、軍事境界線を北緯17度線に決めました。その後統一のための選挙をやるはずでしたが、アメリカが乗り出してきて、ゴ・ジン・ジェムというCIAにゆかりの深いベトナム人を大統領に据えたのです。そのアメリカ傀儡(かい らい)の大統領が、統一のための選挙を引き伸ばし、秘密警察や軍部を使って、国内の反政府分子、つまり「ベトミン」狩りを始めたのです。

50年近く前の新聞記事ですが、そこには捕らえられ顔をひきつらせて震えている「ベトコン」兵士を、アメリカの将校がピストルで平然と撃ち殺している写真が載っていました。いまでもはっきり覚えています。まだ若かったわたしには衝撃的な写真でした。そのころから生の記憶があるわけです。心底、ひどいことをするもんだなとアメリカのやり方に腹が立ち、ベトナム反戦運動に肩入れするようになったわけです。だから、基本的には戦争反対ではなくて、戦争が嫌いなんですね。

久美浜原発予定地

岡田:先生は、核や原発問題にも若いころから取り組んでおられますね。

益川:科学が軍事に使われる最たるものが核でしょう。一発で大量殺戮(さつ りく)が可能な最大の破壊兵器です。核に関していえば、平和利用もデュアルユースも関係ない。わたしの恩師、坂田昌一先生(元名古屋大学教授)は、原子力の平和利用は為政者や科学者の徹底した安全管理のもとにのみ可能であると慎重論を説いていましたが、原発の安全審査を軽んじる設置側の姿勢に50年以上前から警告を発していました。

岡田:確か坂田先生は、東海発電所にイギリスで開発・実用化されたコールダーホールが初めて導入された時、安全面での議論をもっとするべきだと主張したにもかかわらず、まったく聞き入れられなかった。それどころか、意図的に審査関係の書類が届かなくなるなどの妨害を受け、安全審査機関の専門委員を自ら辞めておられますね。

益川:坂田先生が指摘した原発の安全神話に対する疑念と警告は、あの3・11で現実のものとなりました。50年も前から恩師が身を挺して抗議していた安全審査上の問題点が、最悪の形で露見してしまいました。

にもかかわらず、それに対して専門の科学者も、他の分野の科学者もほとんど無知・無関心を決め込んでいました。力ずくの国策に対して、余計なところには首を突っ込むまいという、ノンポリ的な事なかれ主義です。

岡田:原子力に代表されるような現代の科学技術がわたしたちの生活にも深く浸透してきているんですけどね。

益川:わたしが原発問題に関わったのは、1964年ごろに京都大学の原子核理論の専門家、永田忍先生が、名古屋大学に流動研究員として赴任されてきたとき、いろいろと手伝わされたことがきっかけです。

1964年といいますと、佐世保に原子力潜水艦が入港した年です。永田先生は「京都非核の会」の幹事を務め、核兵器廃絶運動に取り組んでおられました。わたしたち素粒子論研究室(E研)のメンバーは永田先生から、原子炉の仕組みや原子力潜水艦はどういう構造をしているのか、1回の航海に3カ月ぐらいかかる原子力潜水艦ですが、航海中にどれぐらい死の灰がたまっているかなど、データをもとにレクチャーしてもらいました。そうした情報は、世の中にも広く伝えていかなければならないということになり、レクチャーを受けて勉強したノートを持って、地域のお母さんたちの集まりや小さな労働組合の集まりに出かけていって、講義をしました。みんなが熱心に耳を傾けてくれました。しかも1回行きますと、3000円の講師代をくれるのでけっこういいアルバイトになったんです。当時の家庭教師が週3回ひと月で3000円という時代でしたから、大きな集会をやるための経費としてそれを多少備蓄しても、ひと月2回もやると家庭教師をひと月やっているくらいになるんです。

そうした講師活動を何回もするうちに、本気で原子力関係の運動にのめり込んでいくようになりました。原子力問題にさらに密接にかかわるようになったのも、永田先生との再会がきっかけです。

岡田:1970年に永田先生が京都大学に戻られてすぐ、先生も京都大学に助手として赴任されたんでしたね。

益川:そのころ、久美浜(現京都府京丹後市)で関西電力の原子力発電所建設反対・賛成で大騒ぎになっていて、原発建設反対派の人たちから「原発の危険性について講演してほしい」という依頼が永田先生のところにきていました。永田先生は赴任したばかりのわたしに「お前行ってこい」っていうんです。「嫌です」といいますと、「お前が行かないと、忙しい俺が行くことになる」、と脅迫まがいのいいようでした。しぶしぶ行きましたら、原発建設に反対か賛成かで町は二分され緊迫した状況でした。そのなかで講演するのは大事(おおごと)ですが、坂田教室での議論に慣れていましたから反対派を代表して、原発建設におけるリスクを、また科学者として原発が抱えている問題を客観的に説明しました。そのあとも縁が切れずに、調査団を組んで久美浜に行きました。

岡田:久美浜原発は地域ぐるみの反対運動をずっとやってきましたので、2006年に関西電力が久美浜原発設置を断念したニュースを聞いてよかったと思いました。わたしが1990年に京都大学に戻ってきてすぐでしたけど、科学者会議京都支部に前からあった原発研究会で、、永田先生たちがまとめられた報告書をもとに勉強させてもらいました。

ノーベル賞記念講演で「戦争」を語る意味

岡田:先生のノーベル賞授与の一報が入った時(2008年10月)は嬉しかったですね。授賞の記念スピーチでも、戦争にまつわるお話をされたわけですが、その時の想いをうかがってもよろしいでしょうか。

益川:多少戦争体験みたいな話をしたんです。そのときの原稿を何人かの人に見てもらっていたんです。そしたらどういうわけか記念スピーチ原稿が出回ってしまったんです。それで、関東方面の研究者から、こういうアカデミックな席で戦争のことをしゃべるのはいかがなものか、「不謹慎だ。アカデミックな場にふさわしくない」という声が聞こえてきました。陰でこそこそいうのはたちが悪い。どんな権威からの圧力であろうと原稿の内容を一切変えず、記念講演では予定通り、話しました。戦争体験の話をするのが最もふさわしい場だと思ったからです。

戦争のことを話すことがわたしに課せられた責任だと思っていました。おそらく自分が戦争の記憶がある最後の年代でしょう。それが何度も戦争のことを話す理由の一つになっています。

オッペンハイマーと秘密保護法

岡田:ほかにも、政治的「圧力」といっていいような話はあるんでしょうか。

益川:ノーベル賞を授与された研究は、人類の発展のためにも殺人兵器にも使用可能という両刃(もろは)の技術といっていいのです。科学に携わる人間ならば、そのことを身に染みて感じていなければいけないでしょう。

話というほどではありませんが、おもしろいですよ。わたしがあるテレビ番組で特定秘密保護法に反対する意見を述べたら、すぐにわたしの研究室に外務省の何とかというセクションのお役人が来て、「これは先生が考えるような危険なものではございません」と、いろいろ説明をしだしたのです。わたしは「初めからギラギラと危険なものは出てくるわけはない。しかし、ある瞬間に牙をむくんだ」といいました。平時は問題なさそうに見えても、政情が際どくなると特定秘密保護法がどんな使い方をされるかわかりません。だから反対だと申し上げました。無実の人間に疑いをかけ、怪しいと思っただけで排除するということが堂々とできる法律を認めるわけにはいきません。そのとき、わたしはオッペンハイマーの話をしてお引き取りいただきました。

これは、実際に1950年頃の話です。マンハッタン計画を指導し、科学者としては絶対的な権力をもっていたかのように見えた理論物理学者ロバート・オッペンハイマーは、終戦後、国策の水爆製造に異を唱えたことで、スパイ容疑をかけられて失脚します。

事件の内実は、オッペンハイマーが戦術核兵器を認めつつも、原子力委員会一般諮問委員会の長として、アメリカが究極的兵器である水爆開発の先頭を切り、止めどもない核兵器開発競争に踏み込むべきではない、という見解をまとめたことです。さらにそれから数年後の1953年、アメリカの核戦略政策に批判的見解を表明しました。そうしたことが科学者の間に広がることを当局は恐れ、機密漏洩をしたといって、彼の絶大な社会的信用を失墜させようとしたのです。結果的には、無罪であるということになるんですが、事実上はもみくちゃにされました。そのことで、オッペンハイマーの科学者としての生命は絶たれてしまいました。

岡田:排除されてしまったのですね。

益川:中性子を一番に思いついたのはオッペンハイマーです。秀才の極限みたいな人で、実務もできました。研究者として一番脂の乗り切ったころを、そんなことでなくしてしまうわけです。

科学者である前に人間たれ

岡田:物理学者と戦争は、核兵器を通して密接な関係があります。戦中、日本海軍から原子核分裂の技術を用いた爆弾の開発を依頼された荒勝文策や日本陸軍に原爆の開発を依頼された仁科芳雄の例があります。先生の恩師であられた坂田先生も大変だったのではありませんか。

益川:坂田先生の言葉は、ここに貼ってあります。「科学者は、科学者として、学問を愛するより以前に、まず人間として、人類を愛さねばならない」。わたしだったらこれをいって、そのあとに緊張を緩和するために「なんちゃって」といってしまいそうですが、坂田先生はそれを堂々といいきります。すごい胆の座った先生でした。

岡田:いつごろの言葉ですか。

益川:1968年前後だと思います。先生は脊髄ガンで入院されていました。当時はまだ輸血システムが確立していませんでしたので、わたしたちが、A型の血を集めました。わたしはO型だから差し上げられませんでしたが、人と顔を合わせると、「おい。お前A型だろ、血をよこせ」というものですから、しまいには吸血鬼といわれてしまいました。これは、先生が小康状態の時を見計らって自宅に戻られた時に、書かれたものです。

岡田:そういうときに書かれている言葉はなおさら重いですね。坂田先生は、科学者としての姿勢や考え方について日常的に、薫陶されていたんでしょうか。

益川:戦争末期、名古屋大学が空襲にさらされたので、物理学の教室や学生たちを引き連れて長野県に疎開し、小学校などを借りて研究を続けておられたそうです。そこで坂田先生がよく読んでいらしたのが民主的な研究体制の必要性を説いた、バナールの『科学の社会的機能』でした。1946年4月、大学に戻ってきて教室会議を最初に開いたときに「物理学教室の運営は民主主義の原則に基づく」と研究室民主主義を宣言します。いままでは教授が研究室のボスだったけれど、こういうシステムはやめましょう。研究者として認められたら基本的には対等である、という宣言です。

坂田先生の持論は「勉強だけでなく、社会的な問題も考えられるようにならないと、一人前の科学者ではない」です。ですから「戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない決意の表明」をした1949年創立の日本学術会議にも参加しました。法学部の広渡清吾(日本学術会議・前会長)さんなど、多くの研究者に受け継がれています。

坂田先生は、物理学も平和も同じ地平に考えていました。「物理の問題が解けるなら、世界平和に向けた難題も解ける」といい、科学者として世界の平和と向き合う道を真剣に模索していました。坂田先生のつくった自由な土壌が名古屋大学の平和憲章に受け継がれたのだと思います。わたしも含めてそんな坂田先生の姿勢を慕って日本中から科学者の卵が名古屋大学に集まってきたのです。

「科学者には現象の背後に潜む本質を見抜く英知がなければならない」「科学者である前に人間たれ」

いずれも坂田先生の言葉です。

2足の草鞋(わらじ)

岡田:益川先生ご自身が平和運動、あるいは原発反対の取り組みをやり、組合の活動もやりながら、研究をおやりになるわけですね。2足の草鞋どころか4足の草鞋ですね。

益川:「物理の研究と平和運動は二つとも同じ価値がある」という信念を持っていらした坂田先生の教室には、2足の草鞋を履けないようでは研究者じゃないというような言葉がありました。

岡田:当時の研究者としては普通だったんですか。

益川:はい、わたしのまわりはそうでした。それに、問題があるのに見て見ぬふりができないわたしの性分もあったと思います。京都大学の組合活動で取り組んでいたのは、非正規職員の「雇い止め」の問題でした。大学の教授たちは、国から支給された研究資金で秘書やスタッフを雇っていますが、その支給額が減れば、まず人件費を削ります。いままで教授の研究を手伝い収入を得ていた人が、突然「今月いっぱいで辞めていただきます」といわれるわけです。しかもそのようなことが当たり前のように行われていました。

若い人たちが、教授の都合で当然のように解雇される。そんな状況が許せませんでしたし、かれらが当たり前のように使い捨てにされるのを見て見ぬふりをしている研究者たちも許せませんでした。組合が支援しなければ、こうした雇用習慣はずっと続いていくに違いない。そう考えて、組合の集会に参加してくれるようにそれぞれの研究室を一つひとつ回りました。

岡田:大変という思いが先にたちませんか。

益川:気楽に考えたほうがいいです。いまは自分で自分の手足を縛っていて、こんなことやっていたら悪く評価される、なんてすぐ思ってしまいます。

組合の活動をやっていても、本業をしっかりやっていたら評価をしてくれます。だから2足の草鞋を履こうが、3足の草鞋を履こうがそうたいした問題じゃないし、別の言い方をすると、本業をやっているときに、本業ばかり突き詰めてやっても効率が上がるかといったら、そうでもないんです。だから、もう少し肩の力を抜いて、まともに考えたほうがいいと思います。

京大で小林誠君と一緒に素粒子理論を研究していた時も、京大職員組合理学部支部の書記長をやっていました。人間2足の草鞋がはけないようじゃいけねえなんて粋がっていました。だからわたしの人生は、必ずほかのことをやっています。

改憲の発議

岡田:先生は若いころ、物理学会の大先輩の先生たちに対しても率直に論をいどんだとうかがっておりますし、社会的な問題についても積極的に発言されていますが、その雰囲気はいまの物理学会にもまだあるんでしょうか。

益川:だいぶなくなりました。もう物理学会がそれほど大きな意味をなしません。情報はほとんどインターネットで手に入りますから。

岡田:たしかに、社会科学系でも学会というより、専門別研究会や科研費のグループで研究するようになりました。学会で社会的問題について発言する機会そのものが少なくなっています。

そういう状況で心配なのは、学会だけでなく、日本中がそうなっているのではないかということです。夏の参議院選挙で3分の2の議席を現与党の改憲派が占めれば改憲の発議までいってしまいかねません。

益川:わたしは現政権が改憲ということを真正面から出してきたとしても、日本人はそんなにバカじゃないと思っています。だからほんとうに真正面から改憲を打ち出してきたら勝てると思います。だけど、もうちょっと搦め手みたいなことをやってくるんじゃないかな。日本人は、けっこうそういう搦め手には弱い。

岡田:弱いですね。

益川:唯一の救いは、若者が動き出してくれたってことです。エネルギーが全然違います。

岡田:昨年の安保国会では、SEALDs、安保関連法案に反対するママの会などが大活躍しましたね。かれらは、自分の言葉で民主主義って何だと問い、語っています。

益川:その学生さんたちにいますぐつくれ、というのは早いと思うんですけれど、もう少し組合だとか老人の会だとか、そういうものを含めた統一的な緩い結合体、ナショナルセンターがあるといいと思っています。

岡田:安倍政権の背後にある動きを実体的に作り上げている勢力とのたたかいは、まだまだ続きます。そういう勢力への対抗力を、職場や地域からつくる必要がありますね。

いまは安倍政権のほうが力を持っているように見えますけど、周辺のところでは対抗力が形成されつつあると見ています。先生の専門分野の「自然の弁証法」という概念を使うと「社会発展の弁証法」です。

益川:いつの時代でもそうですが、民衆はそれほどバカじゃない。とことん追い詰められたら十分立ち上がってくれる。わたしはそう思っています。だから、夏の参議院選挙までいまの緊張感を持続させなきゃいけない。

岡田:やっぱり先を見越して継続的な緊張関係をつくっていくことが必要ですね。安倍さんはどうしても権力とお金が価値基準のすべてです。許しがたいのは嘘をつくことです。

益川:立憲主義の国の首相が嘘をつくということが問題なんです。とんでもない話ですよ。

研究者は外へ、立ち止まって考えよ

岡田:科学者の社会的責任とよくいわれていますが、先生のお考えをうかがえますか。

益川:わたしは科学者の社会的責任という言葉はあまり好きじゃないんです。科学者であるがゆえに自動的に社会的責任が発生する、というようなニュアンスに受け取れるからです。

科学者というのは放っておいたら自分の研究をしているのが一番楽しい。だからそういう閉じこもり科学者を、何かことがあったら「今日は天気がいいから散歩に行こうや」といって外に連れ出し、ついでに集会に連れていくといいのです。そうすれば科学者は自分が開発したものがいったい社会のなかでどういう役割を果たしつつあるのか、ということに気がつきます。一回目覚めれば、科学者はちゃんと問題意識を持ちますから。

岡田:いまの大学や研究機関は成果主義ですし、短期で評価を行います。研究者の業績評価もレフリー制のある海外の雑誌に発表しないとポストにつくこともできません。そのポストも任期付が増えてきていますし、そういうなかでたこつぼにならざるを得ない研究体制になってきていませんか。

益川:自分から動き出してみればそれほどでもないんです。自分で動きづらいと思い込んでいるだけです。もう少し社会問題に対して関心を持つこと。やってみれば、むしろ楽しいものです。科学者に、そういうことを教えてあげなきゃいけないと思うんです。科学者はいま、研究費というお金に追い回されています。

もう少し余裕を持って立ち止まって考えることが重要なんです。やってみたら、どれもそんなに時間を割かなきゃいけない問題でもないのです。ちょっと社会的問題を考えてみる、それだけでいいはずです。やっていないから、二の足を踏むんです。だからそういうことを体験させてあげる必要があると思います。

岡田:そうですね。大学が独立行政法人化されてから、研究者自身が創造的精神をどんどんつんできてしまっている感じがします。

益川:あおられるような状況のなかで、自分で自分の道を狭くしている。自分で自分をたこつぼに追い込んでいるんです。

もっと軽く考えたらいいと思うんです。だって組合活動をやったって、いや別の言い方をすると、本業のところは重要だと思うんだけど、われわれの世界でも1日3時間か4時間、本業に集中したらなんとかなるんですよ。ほかの時間は組合活動をしようが何をしようが、むしろそれが励みになるんです。

若い研究者へのメッセージ

岡田:確かに、その通りですね。今日、名古屋大学の構内をまわって来ましたら、若手の研究者のみなさんが、各所で活発に議論していて、いい雰囲気でした。若手の研究者のみなさんがどういうふうな研究者に育っていくのか楽しみです。

益川:名古屋大学には「戦争を目的とする学問研究と教育には従わない」とうたった平和憲章がありますが、この憲章に対する攻撃も強まっています。

岡田:それは、個々の科学者の問題の域を超えています。

益川:いったん戦時になると、国家は巧みに国民すべてを取り込み、精神動員します。個人は弱いものです。「非国民」「刑務所にぶち込むぞ」と脅かされて、恐れを抱かずにすむ人はいないでしょう。そして、戦争に協力させられます。戦争が始まってしまえば、戦場の兵士だけが戦争をするのではありません。誰もが戦争と無関係ではいられなくなるのです。しかも科学は連続的なものなので、科学者が自分の研究を軍事に使ってほしくないと思っても使うことができますし、軍事に転用できるから研究をやめるというわけにもいきません。本人にそのつもりがなくても、自分が開発した技術が戦闘機に使われるようなことも起こりうる。それに気付いたら科学者は社会に報告すべきでしょう。でもしません。

放っておいたら科学者は自分の研究室で研究ばかりしています。研究している方が面白いからです。だから「科学者は集会や社会に出よう」「科学者を集会や社会に連れ出そう」なんです。すると、科学者にも平和が危ういということはすぐに分かります。

わたしは科学者の端くれとして、戦争に利用されたくはないし、加担したくもありません。戦争で殺されるのも嫌だけど、もっと嫌なのは自分が殺す側に回ることです。

21世紀のいま、戦争を回避しようという人間の理性はどんどん希薄になっているように感じます。日本でも、政治的な動きのなかで、科学技術の軍事利用はますます進み、科学者の動員が巧妙に進められています。いまほど、わたしたちは、さらなる危機感を持たなければいけないと切実に感じます。

岡田:今日は、お忙しいなか、貴重なお話をしていただきありがとうございました。

インタビュー 2015年11月11日
名古屋大学・益川敏英先生の研究室にて
脱稿 2015年12月25日
編集構成 編集部

住民と自治2016年2月号より

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益川敏英(ますかわ・としひで)
名古屋大学素粒子宇宙起源研究機構長、京大名誉教授、京都産業大学益川塾塾頭など
1940年愛知県生まれ。名古屋大学理学部卒。現在は名古屋大学素粒子宇宙起源研究機構長、京大名誉教授、京都産業大学益川塾塾頭などを務める。専門は素粒子論。2008年ノーベル物理学賞受賞。「九条科学者の会」呼びかけ人。近著に『科学者は戦争で何をしたか』(集英社新書)。

岡田知弘(おかだ・ともひろ)
京都大学大学院経済学研究科教授。自治体問題研究所理事長。
近著に『地方消滅論・地方創生政策を問う』(自治体研究社)

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