【論文】公文書管理制度の新しい可能性―市民の行政参加と地域再生―

住民と自治2016年10月号より

2016年10月15日

印刷用PDFファイル▼

加藤 聖文(かとう きよふみ)
人間文化研究機構国文学研究資料館准教授


地方自治体をめぐる環境は厳しさを増しています。今後、行政に対する市民の理解と協力は不可欠なものとなるでしょう。その際、鍵となるのが公文書管理制度です。

公文書管理制度は必要か?

公文書管理法が公布されて早くも7年が経過しました。この間、公文書管理に対する意識も少しずつ高まってきて、政府ではこれまでバラバラだった各省庁の公文書管理もようやく統一され、省庁で作成された公文書が保存期間を過ぎると国立公文書館へ移管される流れが出来つつあります。

今後は国によって行われた政策が体系的に記録(公文書)として残され、国民に広く公開されることで、政府が国民に対して説明責任を果たすと同時に、国民にとっても国の行った政策の妥当性を自らの力で検証できるような社会が作られていくでしょう。

一方、地方の現状はどうでしょう。すでに公文書の管理が強く意識され、条例などを定めて制度が整備されている自治体もあれば、まったく意識されることもなく昔のまま変わっていない自治体もあり、その意識と姿勢の差は年々広がっています。残念ながら自治体と市民との距離が遠く、双方向の交流がない自治体ほど消極的な傾向が強くあらわれています。

地方自治体で公文書管理に対する関心が高まらない理由はいくつか挙げられます。国が定めた公文書管理法では、公文書は国民の財産であると定義されましたが、地方自治体ではまだまだ公文書は役所の業務で使うものであって、市民の共有財産であるといった意識は広がっていません。また、市民に対する公文書の公開についても、現行の情報公開制度を活用すれば十分であって、わざわざ公文書管理条例まで制定する必要はないという考えも根強くあります。

それに対して、市民の反応も鈍いのが現状です。そもそも市民が公文書に接する機会はほとんどありません。あっても、情報公開制度を活用した現在進行形の事業計画や予算執行の検証といった市民オンブズマン的なものが中心です。しかも、市民オンブズマンの関心は現在進行形のものに集まりがちなので、何十年も過去の行政行為に対して目を向けようという意識はほとんどありません。過去の行政行為は、「歴史」として受け止められがちなので、こういったことに関心を持つ市民は歴史愛好家くらいしか見当たりません。

このように、自治体からすれば、情報公開制度さえ整っていれば市民に対する説明責任は果たしているといえますし、市民から見ても情報開示請求によって行政のチェックが可能と思えますので、結果的には両者ともわざわざ公文書管理制度を新しく作る必要性は感じていないといえます。

しかし、公文書管理制度は本当に喫緊の課題ではないのでしょうか? 実は、情報公開制度だけでは不十分であって、むしろ公文書管理制度を整備することが自治体にとってもっとも必要とされているのです。

地方消滅と公文書管理制度

公文書管理制度は、自治体と市民との双方向な関係を構築するための基盤となるものです。これからの日本は、少子高齢化時代を迎えて、自治体財政は縮小の一途をたどり、組織もコンパクトなものにならざるを得なくなります。これまでは自治体のみですべてを行い、市民はそれを享受するだけの関係でした。しかし、自治体が小さくなればなるほど行政サービスも縮小し、その結果、市民生活にもさまざまな面で悪影響があらわれます。

メディアなどで盛んに報じられているように、今後、「地方消滅」といわれるような地方の衰退がいよいよ加速化していきます。わたしも調査研究で地方をまわることが多いのですが、年々深刻化していく現状を実感しています。

政府では、こうした事態を食い止めるために「地方創生」といったスローガンを掲げて対策を立てようとしていますが、具体的な中身は新型交付金や特区制度に依拠する見た目はきらびやかなプランの羅列、しかも、総花的で思いつきに近いものや、個々の計画がバラバラで有機的な結びつきに欠けるものが多いのも事実です。しかし、何よりも問題なのは、国が決めた一定の枠内に地方が安住している構図-すなわち、国も地方も明治から続く中央集権的思考から脱却できていないため、地方の個性に対する顧慮と主体性を伸ばそうという視点が欠落していることです。また、これにこたえる地方の発想力の貧困さも顕著となっています。その要因は、地方に確固たる思想的基盤が失われているということと関係しています。

地方の個性や発想力というものは、一朝一夕に養われるものではありません。これらは長い歴史の蓄積があって初めて生み出されるものです。人間がそれぞれ異なる生いたちや生活環境を持つが故に個性が生まれ、異なる個性が集まることで多様な価値観を持つ社会が形成され、それが社会全体の発展と個々人の豊かさにつながります。

地域も同じく長い歴史の蓄積があってこそ個性が生まれます。新しく開発された地域が街並みはきれいでも没個性的で魅力に乏しいのは、まだそれだけの歴史が無いからです。このような地域も歴史が蓄積されていけばそれなりに魅力的な街に成長していくでしょう。しかし、残念ながら都心から離れて交通の不便な新興住宅地の多くは、そうなる以前に高齢化による街全体の経年劣化が進みゴーストタウン化していきます。これは首都圏の一部ですでにあらわれている現象です。地方消滅といわれる現象は何も地方に限ったことではなく、都市部でも起きているのです。

一方、長い歴史の蓄積がある地域でも衰退が著しいのも事実です。こちらは歴史の継承者不在という要因が最も大きいといえます。これらの地域はこれまで培ってきた歴史を基盤として強固な共同体意識が形成されていましたが、若年層の都市流出と高齢化にともなって崩れはじめ、郷土の歴史を後世へ伝えていこうという意欲すら失われて衰退が進みます。

しかも、平成の大合併による自治体の巨大化がこうした傾向に拍車をかけます。合併前はどのようなへき地の町や村でも公共施設を中核にした中心地が存在し、地域共同体の範囲が明確で、それなりに行政サービスが行き渡っていましたが、市町村合併によってこうした町村の中心地は消滅しました。さらに、旧町村から合併新市の中心部へ人口移動が進み、周辺部の衰退に輪をかける結果になっています。無理な広域合併は人口減少に歯止めをかけるどころか、むしろ加速化させ、周辺部に対する行政サービスの劣化をもたらし始めています。

このような現実を前に、わたしたちはただ手をこまねいているわけにはいきません。何らかの対策を考えなければなりませんが、対症療法的なものでは効果は挙がりません。目立つだけの一過性の成果を求めるのではなく、地道で目立たないながらも長期的には成果があらわれる対策が必要です。

具体的には、歴史の共有を軸に地域アイデンティティーを再構築して、思想的基盤を固めること、そして、住民が行政サービスの一翼を担うことで行政参加意識を高め、自治体のスリム化と業務の効率化を図ることです。そして、意外な話かもしれませんが、これらを実現するために公文書が重要な役割を担うのです。

行政と市民をつなぐ公文書

国民主権がうたわれる民主主義国家の場合、国民と国家とのあいだは、一方通行の関係であってはならず、双方向の関係でなければなりません。

すなわち、自治体は実施した政策に関して、市民に対する説明責任を負いますが、市民もただ説明を受けるだけではなく、自治体が実施した政策を主体的に検証しなければなりません。しかも、市民が自治体の政策を批判するだけではなく、問題が発生したり課題が見つかったりした時には建設的な意見を出し、それを政策の修正に反映させていかなければなりません。こうした双方向の関係があってこそ、政策にまつわるさまざまな問題を解決して、よりよい政策の効果を挙げ、市民がその成果を享受することが可能となります。

しかし、日本の場合、最初から間違いのない完璧なものを求める傾向が強いため、ひとたび政策が実施されるや途中で問題が発生しても責任を問われることを恐れて、問題を過小に評価したり、場合によっては問題の存在すら認めようとしなかったりして、かえって事態を悪化させることが多々あります。ただし、政策というものは実施された後、環境の変化にともなって予期せぬ問題が発生し、当初の想定とは異なる結果になるのが常です。むしろ、予想外のことが起きることが当たり前なのです。

しょせん、人間が考えることですから、予測が外れたり、何らかの問題が発生したりすることを前提にしなければ、問題を認めようとしない側と批判するだけの側の対立に終始し、建設的に物事を前進させることが不可能になってしまいます。

こうした非生産的な事態を回避するためには、市民が検証の基礎となる自治体業務の情報を共有し、自治体とのあいだで建設的な議論を深めていかなければなりません。そして、ここでいう「情報」となるのが公文書なのです。

一般的に、戸籍や土地台帳など住民の権利に関わるものは自治体でも重要視されて、きちんと管理されますが、公文書はこのようなものばかりではなく、立案から決裁を経て施行されるまでの行政行為に関わるものが日々大量に作成されています。

このような行政行為の痕跡ともいえる公文書は、当初は業務に必要な現用文書として扱われますが、作成されてから数年も経つと直接の業務に必要のない半現用もしくは非現用文書となっていきます。そして、時間が経てば経つほど、わたしたちの「現在」の生活というよりも、「過去」の歴史に関わるものとなって、必要のないものは廃棄するか、古文書のように博物館に保管して歴史好きな人びとの目に触れればいいと見なされがちになります。

しかし、これは大きな間違いで、公文書というものは過去の遺物ではなく、これからのよりよい政策を立案するための参考となるものです。また、自治体が自分たちの判断で勝手に廃棄したりするものではなく、一定のルールにのっとって評価選別されて残されたものは市民に公開されなければなりません。

自治体にとって公文書とは、市民に対して、実施した政策は、いい加減な調査や判断で行われたのではなく、きちんと議論を積み重ねた上で実施されたもので、その痕跡は公文書として残されています─ といった説明責任を果たす証拠となるものです。

また、市民にとっては、何らかの問題が起きた場合、何がどこで間違っていたのか、間違えた原因は何なのか、またはどこを修正しなければならないのか、今後はこの失敗をどう生かせばよいのか、過去にさかのぼって検証する材料となるものです。

市民の行政参加と行政の効率化

公文書は自治体と市民とをつなぐ役割を担い、双方向の関係を構築する基盤となるものです。さらに、市民の行政参加を促し、自治体との信頼関係を醸成し、最終的には自治体業務の合理化・効率化を図ることが期待できます。

市民の行政参加による効率化を例にしてみましょう。現在、日本の構造的な問題として指摘できるのは、「労働生産性」の低さです。日本の労働生産性の低さは突出しており、OECD加盟国のなかでも最下位です。

これだけ働いているのに豊かさが実感できないのはなぜか? 日本より経済規模が小さい北欧諸国や経済危機が叫ばれる南欧諸国と比べて、生活にゆとりが無いのはなぜか? その一因として無駄な仕事が多いことが挙げられます。ある意味において日本人は仕事に対して真面目ですが、真面目すぎて屋上屋を重ねるようなことをやっているケースが実に多いのです。とくに自治体においてそれが顕著にあらわれています。

財政事情が厳しいなか、自治体は組織をスリム化すると同時に業務の効率化を図らなければなりません。しかし、このような柔軟な対応は自治体にとってもっとも不得手とするところです。営利を追求するためにはリスクをいとわない民間企業と異なり、自治体は可能な限りリスクを避けて堅実さを求め、そのためにはスピーディな決定よりも時間をかけた合意形成を重視します。お役所仕事と批判される「行政のムダ」はこうした構造的な問題から発生します。

このような問題は構造的なものですから、同じような考えや価値観を持つ職員から構成される自治体内部だけの自助努力では解決できません。市民のような外部の意見を取り入れることが必要になりますが、そこで重要になるのが公文書です。

行政行為の意思決定過程は公文書であらわされますが、この公文書を市民の目線でチェックすると何がムダでどこを削れば良いのかが明らかになります。つまり、立案から決裁までどのくらい時間がかかっているか、どの部署や担当者が関わっているか、どのような関連書類が作成されているか、などが一件書類から判断することができます。これを踏まえて、必要最小限度の意思決定の流れ-すなわちハンコの数を減らす合理的かつ効率的な仕組みを市民と自治体が協同して考えることが可能となります。また、公文書を通して行政の意思決定メカニズムを市民が知ることで、ムダと思っていた自治体業務のなかでも必要なものもあることを理解するようになり、結果的に相互の信頼関係が醸成されて、自治体が業務を進めやすくなります。

これからの自治体をめぐる厳しい環境を想定するならば、市民の理解だけではなく、行政参加という具体的な協力も必要となります。これまでのように行政は自治体のみで行うもので、市民は行政に関わらず、といった壁は取り払わなければなりません。また、こういった公文書を通して行政のメカニズムを理解してもらうことは市民向けだけではなく、学校教育にも生かすことができます。公文書というものは、地域の歴史を学ぶ以上に現在の地域社会を考える上で重要な学習資料となるのです。

このように、市民の行政参加意識を高め、自治体と市民が協業できるツールとして公文書は大いに活用できますが、自治体も市民も必要な時に迅速に公文書にアクセスできて、さまざまな用途に活用できるようにするためには、作成された公文書を一定のルールによって一元的に管理する制度を整備しておく必要があります。

ただし、市民が行政に参加、しかも公文書にアクセスすることに対しては、自治体に強い拒否感があるかもしれません。公文書管理制度についてもその必要性は無いという考えも根強くあります。しかし、公文書管理制度を整えることは、自治体にとって無用な責任をいつまでも背負う事態を回避できるメリットがあるのです。

公文書管理制度の可能性

情報公開制度さえあれば十分と考える場合、公文書はいつまでも非現用になりませんから、何十年・何百年経っても情報開示請求の対象となります。行政機関の場合、部署間の人事異動が3年程度で頻繁に起きます。その結果、職員が理解している業務の範囲は数年単位でしかありません。しかし、異動前の自分が関知していない過去の業務について、情報開示請求が行われ、責任が問われる可能性はあります。

実際、わたくしは各自治体で戦中・戦後にかけて作成された公文書について、情報開示請求を行っています。昭和期の公文書に関しては、公文書館がある自治体でも移管されずに現課保管となっている文書が多く、情報公開制度を活用しなければならないからです。

しかし、現実には五〇年以上も経って歴史公文書として扱われるべきものでも現用文書のまま、しかも、文書リストも作成されていないため検索もできず、現課の職員は直近の文書には詳しくても過去の文書に関してはその存在すら把握していないため、開示請求があってはじめて書庫を大がかりに探索して文書が「発見」されるケースが多々あります。もちろん、戦後の庁舎建て替えなどですでに廃棄されているケースもあります。

すでに歴史となった過去の出来事を知ろうとするならば、関連すると思われる公文書を徹底的に調べる必要があります。その場合、調べる対象になる公文書は、一件や二件ではすまず、ファイル数十冊、場合によっては数百冊という膨大な数量に達します。このような事態は、数件程度のピンポイントの開示請求を想定している現行の情報公開制度とは本質的に馴染まないものです。

このような想定外の請求が行われた場合、担当者は数十冊分のファイルに相当する膨大な文書を本務の合間に探し出して、複写までしなければなりません。しかも、個人情報保護という厄介な制限があるため、すべての文書に記載されている個人情報をチェックするという二重の負担を背負います。わたくしが経験したケースでは、開示請求からすべての資料が手許に届くまで一年かかったこともあります。

ただ、それだけ苦労しても、何十年も昔の個人情報をチェックすることの意味はほとんどありません。国が定めた個人情報保護法では故人が原則として対象から外されますが、全国の地方自治体で定められている個人情報保護条例は故人も含まれており、しかも国の法では適用除外条項によって報道や学術研究での利用は認められていますが、条例にはこれもありません。しかし、実際に過去の個人情報─例えば戦没者名簿─に関しては、他の媒体などを通じてすでに社会に知れ渡った既知情報となっていることも多く、結果としてはマスキングというムダな仕事をしただけということになります。

公文書管理条例があれば、個人情報に関しても柔軟に対応できるのですが、情報公開条例だけではこのようなムダともいえる仕事を永遠に抱え込まなければなりません。

公文書管理制度は、一定期間が経過した公文書を歴史公文書と位置づけて情報公開制度の枠組みから外して、だれもが自由にアクセスすることを可能にします。これによって、職員は過去の行政行為に関する情報開示請求に対応する必要はもちろん、無用な責任を背負い続けることも無くなります。つまり、一定期間が過ぎた行政行為の検証を市民にゆだねることで責任を分かち合うと同時に、自治体は限られた人的資源を新しい政策実施に振り向けることが可能になるのです。

最後に、公文書は時がたてばその地域の歴史資源にもなります。蓄積される量が多ければ多いほど歴史価値が高まると同時に活用の幅が広がり、結果として、その地域の歴史が豊かになるなかで、地域の個性(ブランド)が生まれます。このような思想的基盤があってこそ市民の地域への関心が高まり、行政参加による自治意識を支え続けることが可能になります。それがひいては自立的な地域共同体の再生へとつながるでしょう。

このように、さまざまな活用が可能な公文書管理制度は、地方消滅といわれる厳しい時代のなかでも大きな可能性を秘めているといえます。

住民と自治2016年10月号より

印刷用PDFファイル▼

加藤 聖文
加藤 聖文(かとう きよふみ)
人間文化研究機構国文学研究資料館准教授

1966年生まれ。早稲田大学大学院文学研究科史学(日本史)専攻博士後期課程修了。日本近現代史、東アジア国際関係史、歴史記録学(アーカイブズ学)専攻。著書に『「大日本帝国」崩壊』中公新書、『満鉄全史』講談社選書メチエ。共著に『1945年の歴史認識』東京大学出版会など。

▲ ページの先頭へ戻る