【論文】農からの地域再生 ―福島の奇跡と住民活動の軌跡―


原子力災害からの復興を目指して福島ではいまどのようなことが行われているでしょうか。いま福島につどい、前を向いて進んでいる人たちの動きを「農」の視点から紹介していきます。

原子力災害、福島の現状

東日本大震災、原子力災害から7年がたちます。東京電力は廃炉作業を進めてはいますが、原子炉内の状況把握、汚染水の処理など対策が後手に回っています。

福島県の人口は2011年3月に202万4401人でしたが、2017年12月には187万9235人で、14万5166人減少しています。福島県の震災による死者は2017年12月31日現在、直接死1605人、関連死2186人、死亡届等224人、死者合計4015人で、避難後の関連死が多いことが特徴です。

こうしたなか、福島県産品の購入を避ける人が約20%おり、流通業者による福島県産品の店からの「棚はずし」が行われており、流通構造が変化してしまっています。

また消費者意識は、原発爆発のイメージがいまなお強く残っているにもかかわらず、その後の放射能汚染対策については無関心化しています。

安全対策と消費者意識

福島県内では安全な農産物生産への取り組みが進み、放射線対策の「入口」では、①ほ場の放射線計測、②表土除去、反転耕、果樹樹皮洗浄、③カリウムなどの投与による放射性物質の作物への吸収抑制対策、④加えて放射性物質を吸収しにくい作物の選択などが行われています。

対策の「出口」では、コメについては全量全袋検査が行われ、毎年1000万袋以上の検査を行い、2014年度以降100ベクレル/㌔㌘以上の基準値超えのコメは一袋も出ていません。2017年産米も2018年1月15日までの検査で、基準値超えは一袋も出ていません。モモ、ナシ、リンゴ、カキや野菜、畜産物なども2017年のモニタリング検査では基準値超えのものはありません。そうした点から、現在市場流通している農畜産物については安全といえ、消費者が福島県産の食品を摂取することによって生じるとされる、内部被曝はほぼ抑え込んでいるといえます。

東京大学(関谷直也研究室)と福島大学との共同調査では、「米の全量全袋検査」「現在、野菜から測定される放射性物質は検出限界値以下であること」を知らない人ほど福島県産品を忌避し、「米の全量全袋検査」「JAの検査」を知っている人は不安感が低く、福島県産品を購入しているという結果が出ています。

2017年2月の調査では、「多くの県産食品の放射性物質濃度が検出下限値未満と知っているか」との問いに対して、福島県内の人は50・3%が知っているのに対して、県外の人は17・5%しか知らないという現実もあります。この情報不足をどう克服していくかも大きな課題といえます。

福島の奇跡とは何か

福島の農地の放射性物質の量は、除染と自然減衰などにより、大きく減少していますがゼロではありません。しかし田畑の表層に沈着した放射性物質は、耕され大量の土と混和され、土中に放射性物質があっても地表の放射線量は低下し、そこに種をまいて育てた作物には放射性物質がほとんど移行しないという事実が明らかになってきました。

土(とくに粘土質の土)が放射性物質を強く吸着し、作物がそれを吸いにくい状態が生まれてきています。これにカリウム投与などの吸収抑制対策が効果を発揮してきています。

こうして当初危惧された農産物放射能汚染の分布モデル曲線と、現在の測定値に基づく分布モデル曲線とでは、後者が劇的に低くなっています。すなわち放射性物質の自然減衰以上のスピードで農産物への放射性物質の移行低下が進んでいるという事実があります。有機農業研究の第一人者である中島紀一氏は、これらの事実を冷静に分析し、これを「福島の奇跡」と呼んでいます。

この奇跡はだれがもたらしたのか。結論を先取りしていえば、放射線を計測し、土を耕し、対策を施し、検査を続けてきた農業者、普及指導員、研究者、農協、自治体などの担当者の努力と協働による住民活動の「軌跡」の結果であるといえます。

そこで次に「福島の奇跡」を生んだ住民活動の軌跡とはどのようなものであったのか見ていきましょう。

農協、生協による全ほ場の放射線計測 ─福島市─

福島市は避難区域ではありませんが、市民、農業者の放射線への不安は大きなものがありました。そこでJA新ふくしま(現JAふくしま未来)では管内全ほ場一枚ごとの放射線計測を実施することにしました。

チェルノブイリ事故で大きな被害を受けたベラルーシ共和国から輸入した計測器を用いて、ほ場一枚ごとの汚染度を測るとともに、高リスクのほ場の有無、その要因解明、放射性物質の吸収抑制対策など今後の営農指導まで視野に入れる形で計測を行いました。水田2万4480筆・計測ポイント数6万3256、果樹園1万158筆・計測ポイント数2万7308で、全ほ場を計測しました。

この計測は人手と時間が必要でしたが、農協では協同組合ネットワークを活用して全国の生協からボランティアの応援を得て計測を行いました。計測後地元へ戻った生協関係者、消費者は福島の努力と産品への信頼を正しく伝える役割を果たしてくれました。

避難区域に隣接した営農継続地域 ─二本松市東和地区─

福島県旧東和町(現二本松市)は、避難指示区域に隣接している農山村です。2005年に東和町が二本松市へ合併する際、町のまとまりを守るため、NPO「ゆうきの里東和ふるさとづくり協議会」をつくり、「道の駅ふくしま東和」の運営、クワの葉などの特産品加工、農産物直売、有機堆肥製造などを行ってきました。

震災直後は情報の錯綜・混乱が続きましたが、子や孫の健康を心配するなかで、きちんと話し合い、避難する方向ではなく、この東和地区でともに暮らし続けることはできないのかという方向を検討してきました。

2011年の夏から新潟大学、茨城大学、横浜国立大学、福島大学などが協力して空間線量マップの作成、土や水や山林を総合的に把握するなかでの放射性物質の作物への移行メカニズムの検討が行われ、そのなかから耕すことによって放射性物質を抑え、作物に移行させないということを発見していきました。

この活動を中心になって支えた新潟大学の野中昌法氏(2017年6月9日逝去)の調査・計測に当たっての基本姿勢は次の通りでした。①主体はあくまでも農家である、わたしたちの調査研究は農家のサポートである、②測定を復興の起点とする、最終目的は農業の振興である、③地元の安心感を生み出す、④研究者の行った調査が生産者にわかりやすく理解されるように心がけ、自由な議論を行う場を保障する、⑤農家への報告会では、実践のノウハウの共有を目的とする。

こうしたなか協議会は「里山再生計画・災害復興プログラム」を打ち出し、①損害賠償支援活動、②農産物の安全確認活動、③生産ほ場再生活動、④農産物の販売拡大活動、⑤会員の家族と健康を放射線から守る活動、と体系化し活動を続けています。

>こうした活動は、「農」に関心を持つ若者を引きつけて、視察研修者が増加し、それに対応して農家民宿が増え、新規農業参入者も増加しています。放射能と戦いつつ農業を維持発展させるという実践を学ぶために、受け入れの学習ツアーを展開する若い女性農業者も生まれ、リンゴのシードルやワイン生産へと展開する会社も設立されてきました。

中島紀一氏はこれを例外的・特殊的な現象ではなく、一般的で普遍的な現象であると整理して、これを「福島の奇跡」と呼んだのでした。

特定避難勧奨地点 ─伊達市小国地区─

福島県旧霊山町小国地区(現伊達市)は特定避難勧奨地点に指定されました。これは避難指示区域の外側で、スポット的に年間の積算放射線量が20㍉シーベルトを超えると推定される地点について、住民への注意喚起や避難の支援を行うため設定されました。世帯単位で指定がなされ、そこには10万円/月・人が支給されました。

世帯単位で指定されるため、隣り合った住民が異なる経済条件におかれ、その結果、集落、世帯がバラバラになり、集落の自治機能が著しく低下し、地域の維持に懸念が生じてきました。そこで住民は2011年9月に「放射能からきれいな小国を取り戻す会」を結成し活動を開始しました。

まず行ったのが、住民による放射線量分布マップの作成でした。国が2㌔㍍メッシュでしか計測を行っていないなか、住民は100㍍メッシュで計測を行い、国の調査では把握できなかった、より正確なデータを自分たちでつかんでいきました。

さらに地区内に簡易分析装置を設置し、食品の放射性物質の測定も自主的に始めました。また営農意欲の減退を招く危険性があることから、東京大学(根本圭介研究室)、福島大学などの協力を得て、セシウムの吸収メカニズムの解明とその吸収抑制対策を検証する水稲試験栽培を開始し、現在もさまざまな試験を継続しています。

2013年2月には世帯ごとに補償内容が異なることの解消をめざして、指定をされなかった世帯が、原子力災害賠償紛争解決センターにADR(裁判外紛争解決手段)による集団的和解の申し立てを行い、2014年に和解が成立しました。これにより地区内の賠償金の世帯間格差は一定程度解消され、この地区のADRは地域の団結を強化する方向に働いた貴重な経験となりました。

さらに2013年12月から小国地区復興プラン提案委員会を発足させて、2015年3月に「小国地区復興プラン 豊かな恵みと笑顔あふれる小国を目指して」として、政策要望をまとめあげました。またこの間の住民の気持ちは『会員の声 記録集』としてとりまとめました。

このプランを受けて伊達市は2015年に「伊達市復興支援員設置業務」を整備し、福島大学と協力して、大学が特任研究員を採用し、その人が復興支援員として小国地区で活動する形を作りました。以前福島県の普及指導員であった2人が、専門性を生かして活動をしています。カボチャやコンニャクの試作、加工から道の駅との連動も考えて住民と一体となって活動しています。 ほ場の放射線計測、水稲試験栽培、食品の検査、団結をめざすADR、プランづくりから専門家の配置まで、体系的な住民活動が地域を支え、まとめている姿をよく読み取ることができると思います。

住民参加の放射線計測から営農再開へ ─飯舘村─

阿武隈山系北部の福島県飯舘村は「までい」ライフをスローガンとする住民参加のむらづくりを進めてきた村として知られていました(までい=手間ひまを惜しまずに、丁寧に)。 福島原発から40㌔㍍以上離れたこの村に、北西に向かった風雪にのって放射性物質が降り注ぎました。国は2011年4月に村を計画的避難区域に指定して、全村避難の指示を出しました。困難な避難生活のなか、村は村民や村外の協力者と共に「いいたてまでいな復興計画」(2011年第1版~2015年第5版)を策定して、ネットワーク型の新しいむらづくりを目指して地域再生が続けられています。

こうした村全体の村民参加の計画づくりとその実践は原子力災害地域再生の苦闘の歴史として語り継がれるべきことと思われますが、ここでは農業再建の動きについて見ていきます。事例は福島大学、新潟大学に放射線計測の依頼があり、住民と研究者が協働して計測活動を行うこととなった大久保外内地区です。

計測にあたっては福島市、伊達市小国地区、二本松市東和地区の経験が活用され、先の野中原則を念頭に置いて実践をしました。これにより、地域の人々の思いが研究者を動かし、研究者と住民が共に行う計測がまた地域の人々を、しっかりと考えながら前へと進めていくという循環を生み出すこととなりました。

計測は2013年9月から2016年4月まで行いました。主として新潟大学チームが宅地、道路を、福島大学チームがほ場の計測を行いました。計測はすべて地区の住民が参加して自ら計測器を操作し、結果を自分の目で確認していきました。計測の後は住民と研究者が一緒になって何度も報告会を行い、得られたデータの意味を確認していきました。計測期間の途中で除染作業が入り、放射性物質の量や空間線量は大きく低下していることが明らかになりました。住民はこれらのデータをもとに帰村や営農再開の条件を、自律的に判断する基準を知ることができるようになりました。

さらに農業者の外部被曝をいかにして減らしていくかということから、国立研究開発法人産業技術総合研究所の協力を得て、作業を行う農業者に「GPS連動小型個人線量計Dシャトル」を首から下げてもらい、作業を行いながら受ける放射線量と作業中に動いた場所を特定し、一定時間どこでどのくらいの放射線量を受けたかを計測しました。計測結果は平均0・37マイクロシーベルト/時で、最小は0・09から最大は0・53マイクロシーベルト/時と幅があり、同じ地区内でも滞在する場所や行動の内容によって、受ける個人線量は大きくばらつくことがわりました。ここから各個人に、いかなる場所での作業が比較的安全か、また避けたほうが良い場所はどこかなどの判断材料が提供されることとなり、それにより農業者が受ける外部被曝の量を可能な限り低減させていく方策が見えてくるようになりました。

こうした放射線計測と併せて、除染後の農地で作物を栽培し、収穫物に含まれる放射性物質の量が基準値以下かどうかの実験を行いました。ベラルーシでの実験から、比較的放射性物質を吸収しやすい豆類で試験を行うこととし、ダイズを作付けしました。ほ場を区画し、有機性カリウム肥料施肥の有無と根粒菌接種の有無に分けて栽培し、収穫後それぞれについて放射性物質の有無を計測しました。ダイズのなかの放射性セシウムの濃度はいずれも10ベクレル/㌔㌘以下(基準値以下)であり、安全性が確認されました。その結果、十分な耕起を行い、土壌中の交換性カリウム含量を計測し、きちんとした対応をしていけば営農再開は可能であると判断することができました。

また計測、実証栽培と並んで地区の人々は、ここに生きた証として『暮らしの記憶誌 おらほの風景』を発行しました。

こうした計測や実験と平行して飯舘村役場は、営農再開検討会議を設置し、農業者、農協、行政、研究者などが加わって検討を続け、2017年3月に「飯舘村営農再開ビジョン」を取りまとめ、集落ごとの説明、検討を進めてきました。

内容は各戸の進む農業のスタイルを、①農地を守る、②生きがい農業、③なりわい農業、④新たな農業の4類型に区分しました。2017年7月現在で、農業で生計を立てていこうとする農家が約60戸、農地保全も含めて何らかの形で農業をする予定の農家が約120戸となっています。全村避難で人口ゼロ、農家ゼロとなった点からの再出発としては予想以上に意欲的な農家が多いといえます。

2017年3月31日には避難地域解除(帰還困難区域の長泥地区は除く)がなされ、農業も再開され、花きの出荷が進み、肉牛の放牧実験も行われ、秋には待望のコメの出荷もなされました。

▲2016年、福島県飯舘村での放射線計測
▲2016年、福島県飯舘村での放射線計測

前を向いて進む人たち

福島では困難な面はありつつも、それに負けず深く考えて、前を向いて進んでいる人がたくさん現れてきています。飯舘村ではある村民が「問題山積だけれど、こんなに考えたことはない一年だった。村民はみんな哲学者になったよ」と述べています。

水稲、果樹、野菜生産が活発な地域での原子力災害はこれまでに世界に例がなく、除染、吸収抑制対策、全量全袋検査を体系的に行った例もありません。こうした活動はいま世界的に課題となっているGAP(農業生産工程管理)の認証取得の基礎にもなります。これらのチャレンジは先端課題への取り組みとなり、福島は課題解決最先進地となっています。この取り組みを最高の勉強の場ととらえ、「いま福島はおもしろい」、「ここでがんばろう」という人たちが生まれ、集まってきています。

水俣病と向き合った社会学者の故鶴見和子氏は、公害による自然と人間の破壊に対して、「もっとも深くきずついた人々のうちから、再生の芽はさがしもとめられるにちがいない」と述べています。

史上最悪の公害である原子力災害に見舞われた福島の住民の動きは、深くきずついた人々だからこそできる、確かな地域再生・農業再生の芽であり、大地に根ざした着実な歩みということができます。これはまた暮らしに根ざした、「負けない戦い」でありその軌跡は「未来に向かっての永続的な挑戦」であると確認することができます。

そうしたなか、復興とは何かという問いに対して、原発地域の財政研究の第一人者である清水修二氏は「災害によって奪われた憲法上の人権を一つひとつ回復していくこと」と述べています。福島で前を向いて生きていこうとする人々にとって、どのような生き方をしていくのかという上での大切な視点を提起していると思われます。

【参考文献】

  • ・守友裕一、大谷尚之、神代英昭編著『福島 農からの日本再生』農山漁村文化協会、2014年
  • ・中島紀一「『ふくしまの奇跡』からみるいのちを支える農と食」CSOネットワーク編『持続可能な社会をつくる 共生の時代へ』CSOネットワーク、2013年
  • ・野中昌法『農と言える日本人 福島発・農業の復興へ』コモンズ、2014年
  • ・「までい」特別編成チーム『続までいの力』シーズ出版、2012年
  • ・鶴見和子『漂泊と定住と』筑摩書房、1993年
  • ・池田香代子、清水修二他著『しあわせになるための「福島差別」論』かもがわ出版、2018年
守友 裕一

北海道大学大学院農学研究科博士課程修了。農学博士。地域政策、農山村経済論、内発的発展論が研究テーマ。著書に『福島 農からの日本再生』農山漁村文化協会、2014年。