【インタビュー】福島県いわき湯本温泉 東日本大震災からの復興・再生をめざす温泉街の挑戦

  • 里見 喜生(さとみ よしお)
    いわき湯本温泉元禄彩雅宿古滝屋代表取締役

2018年5月15日

月刊『住民と自治』 2018年6月号 より

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震災後、足元の温泉街は

東日本大震災によって引き起こされた福島第一原発事故の被害は、これまで日本人が経験したことのないものです。

福島県いわき市にあるいわき湯本温泉の歴史は古く、これまでも多くの自然災害や社会的事件の影響を受けてきました。そして、原発事故による住民の避難、観光客の激減、作業員の宿泊と撤収は、温泉街の構造を大きく変えるものでした。震災によって旅館・ホテルに被害があっただけでなく、原発事故による住民の避難は営業そのものを困難にしました。さらに、営業の再開にめどがついた後も観光客が戻らない状況のなかで、休業補償や多くの原発事故の復旧作業員が宿泊施設として利用することで一時的な収入が得られたものの、温泉街を中心とした街づくりはより困難なものとなっています。

ここでは、震災・原発事故で温泉街に何が起こったのか、を古滝屋当主・里見喜生さんへのインタビューの後、困難な状況を乗り越えるために、老舗旅館と温泉街がどのような取り組みを進めているのか、を解説します。

震災・原発事故で温泉街に何が起こったのか(インタビュー:2018年4月8日)

──

震災・原発事故前の温泉街の様子をお話しください。

里見

湯本温泉にいらっしゃるお客様の目当ては、まず温泉ですね。1200年の歴史があります。それといわき市の小名浜港から直送される魚介料理を目当てにして、団体旅行またはグループ旅行でいらっしゃる傾向にありました。

そして、近隣にはスパリゾートハワイアンズ、いわき市石炭・化石館ほるる、白水阿弥陀堂があります。宿泊の翌日は小名浜に行き、そこの物産センターで魚介類を購入され、自宅に戻るという旅行のスタイルが多かったのが、いわき湯本温泉でした。

湯本温泉の売り上げは、1996年の全盛期には75億円ありましたが、2006年には38億円まで減少していました。これは、全国どこでも同じ傾向があって、背景には観光客の「温泉地離れ」や宿泊形態の多様化があります。個人的には、1986年ごろのバブル景気が特殊であって、異常であったのかなと思っています。数字だけ見ると急激に落ちているように見えますが、バブル前の数字と比較したほうが現実的かなと考えています。

そんななかで、2008年から経産省と国交省の事業「健康と癒しの温泉地創設事業」を活用して、健康と癒やしをコンセプトとして他の温泉地との差別化を図っていました。スパリゾートハワイアンズから講師を招いて講習会を開き、各旅館に一人以上のバルネオセラピスト(温泉保養士)を養成しました。

それ以外にも「いわきフラオンパク」を開催して、地元の歴史・文化に触れる街歩きプログラムを実施していました。湯めぐりツアーやグルメツアー、炭鉱遺産の見学など多岐にわたるプログラムで、観光客と地元住民との交流にも一役を買っていました。

これらを中心とした取り組みが進められていた矢先に、東日本大震災と福島第一原発事故が起きました。

2011年3月23日、いわき市「鶴の足湯広場」。震災直後の炊き出しと物資配給の様子。
2011年3月23日、いわき市「鶴の足湯広場」。震災直後の炊き出しと物資配給の様子。
──

震災当時の温泉街と古滝屋の状況を教えてください。

里見

2011年3月11日、震度6弱の地震が、いわき湯本温泉を襲いました。地震の影響で、水道、ガス、電気などのライフラインが停止して、各旅館では建物が一部損壊、飲食店や一般住宅にも被害が及びました。温泉配管の亀裂によって温泉の配湯が止まるなど、混乱は大きいものでした。

古滝屋は、館内の一部が損壊したり、エレベーターの軸がずれたりするなどしました。その他のライフラインも停止して、震災当日は地下にある非常用バッテリーや貯水タンクで急場をしのぎました。

当日は、60部屋200人の予約が入っていて、それぞれのお客様に連絡を取ろうと試みましたが、電話はつながりにくくて、旅館で待機していました。最終的に50人ほどのお客様が宿にたどり着いて、スタッフが簡易的な料理を作って提供しました。

翌12日は、東京電力(東電)の福島第一原子力発電所1号機の水素爆発が起きました。放射能の恐怖からか街にだれも出てこなくなりました。それから3号機、4号機が相次いで水素爆発を起こし、温泉街の住民も避難せざるを得なくなりました。わたしも3月17日に、家族とスタッフ40人と共に友人がいる群馬県の伊香保温泉に避難しました。母と妹を残してきたことが気がかりであることと、いわきに残っていた地域づくりの仲間から沿岸部がひどい状況になっているとの情報を受け、避難から1週間ほどたったころ、再び家族と共に湯本に戻りました。他のスタッフは、さらに群馬県の水上温泉に避難しました。

──

湯本に戻ったときの街の状況はどうでしたか。

里見

学校の体育館が避難所となり、主に福島県双葉郡からの避難者が避難生活を送っていました。地域づくりの仲間と協力しながら水や食料の配給体制を整え、炊き出しにも参加しました。配給が行き届かない高齢者には、直接食料を渡してまわりました。このころから救援物資が全国から集まるようになり、古滝屋や旅館こいとはそれを受け渡す拠点になりました。情報が錯綜するなかで、わたしがSNSなどで発信する情報を頼りに多くの人がきました。いわき市石炭・化石館ほるるに拠点が移るまでの2~3週間はその対応に追われました。3月いっぱいは、避難所や物資拠点の対応に追われました。古滝屋では、夏までに予約をいただいていた約4000人がキャンセルとなりました。施設の安全面を考慮し、やむなく営業を休止しました。

同じころ、福島第一原発では、炉心溶融危機などがあり、放射能の影響が住民を不安にさせていました。4月4日には、1万5000㌧もの高濃度汚染水が海に放出されました。その影響もあり、いわき市、相馬双葉両漁協は操業自粛を強いられ、そこから放射能との長い闘いが始まることになります。温泉街の多くの旅館は、小名浜港から直送される海産物を使った料理が目玉でしたが、原発事故を契機にそれを売りにすることは難しくなってしまいました。4月11日には大きな余震も発生し、その後も原発の相次ぐトラブルによって、住民や商売している人々はさらなる被害を受けました。

──

温泉街は復興作業員の宿泊拠点になったそうですね。

里見

古滝屋では、建物の損傷があったこと、物資基地の機能を果たしていたことなどから、作業員の受け入れはしませんでした。それは、建物の影響もありましたが、他の旅館が作業員の受け入れでどこも空室がない状況で、一般のお客様が泊まれない状況が続いていたからです。古滝屋はインフラの修理が続いていたこともあり、宿泊だけの提供としてボランティアの受け入れをしていました。その後、福島県教育委員会からいわき明星大学をサテライト校として校舎を移した福島県立双葉高校の寮・寄宿として受け入れてくれないかというお話があり、1年間寄宿として受け入れました。原子力災害によって高校生が高校生活を送れないというという状況を見て、土着企業である古滝屋の役割であると考え、これまで経験のない寄宿という判断をしました。

──

震災・原発事故で温泉街と古滝屋はどのように変わったのでしょうか。

里見

温泉街のイメージは大きく変わってしまいました。具体的には、原発から50㌔㍍の距離にある温泉地、原発から一番近い温泉地であるというイメージ、放射能汚染されている温泉地というイメージがついてしまいました。そのせいで、とくにこどもを持つファミリーが近づきがたくなってしまいました。

一度は旅館をやめようと思いました。他の温泉地からこちらに引っ越して旅館をやってみないかと誘われたこともありました。古滝屋の歴史を振り返ってみても、火事で建物が焼けてしまったこと、炭鉱の乱掘で温泉が出なくなった時代もありました。それと比べれば、布団も温泉も、それだけでもあります。古滝屋としてはシンプルに温泉を提供し、次の日に活躍できるための英気を養ってもらうために宿泊してもらうと、そういうシンプルな形で再開したいと考えました。

その後、営業再開のための準備を進めるため、2011年12月から大規模な建物の改修工事を開始しました。

解説 温泉街の姿を変えた「復興バブル」

いわき湯本温泉街は、震災直後から避難者受け入れの対応に追われる一方で、復興作業員の宿泊拠点となりました。その受け入れをめぐって各旅館・ホテルの経営判断が分かれ、温泉街の様子も大きく変わりました。

2011年3月末に、東電関連会社から直接、各旅館・ホテルに復興作業員の受け入れの要請がありました。東電は、原発により近い場所に復興作業員の宿泊拠点を設け、復興作業を進めようとしていました。当時、避難区域がいわき市北部まで広がっており、最前線のいわき市街のホテルはすでに復興作業員で満室でした。それより南に位置するいわき湯本温泉街には旅館・ホテルが28軒あり、その収容能力が期待されました。最終的に、旅館2軒とスパリゾートハワイアンズを除いた、すべての旅館・ホテルが1泊2食または3食4000~7000円ほどで復興作業員を受け入れました。

ある旅館関係者は「事故収束のためには作業員が必要であり、早い復興を願っていた」と話し、「我々にできることはそれ(受け入れる)ぐらいしかなかった」と受け入れた理由を語りました。復興作業員は主に、原発作業員、除染作業員、震災復旧工事作業員で構成され、2011年夏のピーク時には原発作業員約1800人、震災復旧工事作業員約500人が宿泊していました。旅館、ホテルは連日満室の状態となり、売り上げが震災前の2倍になるところもありました。とくにスナックや居酒屋は、炭鉱が栄えた時代をほうふつとさせるような大変なにぎわいでした。そのようないわば「復興バブル」の状況が1年半ほど続きました。街の風紀を気にする声もありましたが、温泉街が復興作業員を受け入れたことで、原発事故収束のために大きく貢献したと考えられます。

しかし、2012年には作業員数が減少し、その穴を埋めるのは容易ではありませんでした。一般客の宿泊は回復せず、いまも温泉街の観光交流人口は震災前の半分にまで減少しています。その影響で、震災前の経営形態を変更する旅館・ホテルもでてきました。板前や仲居などの人件費を削減して少人数経営にシフトし、夕食の提供をやめる、もしくは軽い朝食のみを提供するなどの経営(B&B)が増えました。現在でも、震災復興事業関連のビジネス客の宿泊が多く、ビジネスプランなどを充実させる動きもみられます。

2011年秋に東電の原子力損害賠償の制度が整備され、1軒を除いたすべての旅館・ホテルが旅館協同組合を通して一括申請で認められました。しかし、東電は、2015年8月に、この先1年間の賠償額の2倍に相当する賠償金額を、将来分を含めて一括して支払うことを通達し、それ以降は特段の事情により原発事故との相当因果関係が認められる損害がない限り賠償に応じない姿勢を示しました。後に、「仮に平成27年(2015年)8月以降に一括賠償額以上の損害が生じていたとしても、本件事故との相当因果関係を確認することはできない」と結論づけ、「同地域(いわき市常磐エリア)における観光に関する風評被害の存在を認識することは困難である」と主張しました。JR湯本駅やスパリゾートハワイアンズの客数が事故前の水準に回復していることなどを理由にあげましたが、震災後のJR湯本駅の利用客に占める観光客の割合が極めて小さいことやスパリゾートハワイアンズが宿泊施設を増築したことを考えれば、それはいいがたいものです。2017年8月ごろに個別の賠償の受付が再開されたものの、旅館・ホテルが再び申請しても大半が対象となりませんでした。

震災前に28軒あった旅館・ホテルは現在、23軒に減り、多くの旅館・ホテルの宿泊客数と売り上げは軒並み震災前の5~7割程度に落ち込んでいます。まさにいま、温泉街のあり方自体を考え直す時期に差しかかっているといえます。

復興と再生をめざす温泉街の挑戦

いわき湯本温泉街では、復興と再生をめざして、さまざまな地域づくりの取り組みがなされています。

最も注目されているのは、「フラ女将」です。旅館、ホテルの女将たちが温泉街でフラを踊るユニークな取り組みです。元々、1966年に開業した常磐ハワイアンセンター(現スパリゾートハワイアンズ)のイメージがあり、温泉街の体育館ではひっきりなしにフラの講習会が開かれているほど、フラは街に浸透しています。いわき湯本温泉は、2015年8月に「フラのまち宣言」をし、温泉の持つ「和」の文化と、スパリゾートハワイアンズに代表される「フラ」の文化を融合した新たな街づくりを行うことを発表しました。この宣言には、「じょうばん街工房21」や「いわき湯本温泉観光協会」、女将たちを組織する「いわき湯本温泉女将の会湯の華会」なども関わって、まちづくりの大きな潮流になっています。毎月、女将たちが着物でフラを踊る「着物deフラ」や、年に1回の「いわき湯本温泉フラのまちフェスティバル」など活動は多岐にわたります。また、地元の食材を使用した「フラ女将カレー」のパッケージが第56回福島民報広告大賞小型広告の部で金賞をとりました。さらに、温泉総選挙2017でいわき湯本温泉が特別賞の「フラ女将賞」を受賞したりするなど、「フラ」と「女将」の融合は大きなインパクトがあります。

さらに、スポーツで盛り上げようとする動きもあります。「いわきFC」が2012年に設立され、現在、東北社会人サッカーリーグ2部を戦っています。震災後、株式会社ドームがこの地でサッカーチームの設立を計画し、2015年に子会社がいわきFCの運営権を譲り受けました。2016年には温泉街のはずれに日本初となる商業施設併設型のクラブハウス(いわきFC PARK)を整備し、温泉街の宿泊客や地元住民も訪れています。いわきFCの選手たちは頻繁に温泉街に入りにきており、最近では古滝屋がいわきFC PARKへの送迎サービスを開始するなど、温泉街との交流も増えてきています。

一方で、祭りも盛んに行なわれています。金刀比羅神社例大祭(1月)、温泉神社例大祭(5月)、いわき湯本温泉夏まつり(8月)、じゃんがら念仏踊り(8月)、いわき湯本温泉月まつり(10月)が開催されています。また、2016年度の映画興行収入第2位(実写映画第1位)となった『超高速! 参勤交代』(本木克英監督、佐々木蔵之介・深田恭子主演)の舞台となった湯長谷藩(現在の福島県いわき市常磐下湯長谷町家中跡)にちなんだイベントも取り組まれています。

外部への情報発信に取り組んでいる主体もあります。いわき市と一般社団法人いわき観光まちづくりビューローは、震災後から首都圏を中心にキャラバンを送っています。スパリゾートハワイアンズもフラガールを全国に派遣し、情報発信に寄与しています。

震災・原発事故を機に、まちづくり組織が一丸となった取り組みが進められるようになりました。全体をまとめるような役割を果たすまちづくり組織として「じょうばん街工房21」が機能しています。

旅館やホテルの女将たちが温泉街でフラを踊る取り組み「フラ女将」。
旅館やホテルの女将たちが温泉街でフラを踊る取り組み「フラ女将」。

ある老舗温泉旅館の取り組み

古滝屋は、2012年7月に10人の従業員と40部屋ほどの小規模で営業を再開しました。震災前には140人の従業員がいましたが、再開のめどが立たないなかで、古滝屋に残る者、新たに仕事を探す者と、それぞれの道に進んでいました。営業再開を機に、経営形態を大きく変えました。それまでは旅行代理店を通して宴会客などの団体客を多く呼び込み、料理を旅館の売りにしていましたが、震災を契機としたニーズの変化を読み取り、夕食の提供をやめて素泊まりまたは軽い朝食だけの提供にシフトしました。それと同時に、全体の価格帯も引き下げました。震災前に年間8万人いた宿泊客数は1万5000人へ減少して売上が大幅に減りましたが、従業員の人件費と食事の提供に伴う負担も減ったため支出も減少しました。震災後には赤字続きでしたが、現在では新卒採用も復活させるまでに回復し、2018年4月には地元の高校の卒業生を採用しました。こうした古滝屋の経営形態の変更は、温泉街で経営する飲食店に宿泊客を流す効果も生み出しています。

さらに古滝屋は、老舗旅館という枠にとらわれない取り組みを行っています。宴会場を利用した託児所の設置をはじめ、音楽ライブ、映画上映会、工作体験、書道会、芸術教室、鉄道模型の展示、踊りの大会、カフェなど多くの顔を見せています。また、いわき周辺のボランティアの活動拠点ともなっています。このように、古滝屋は地域住民の交流の場を創出しており、地域において大きな役割を担うようになりました。

また、スタディーツアーも企画されています。里見さんは震災後、原発事故後の生き方を社会に伝える「Fスタディーツアー」を創設しました。震災直後の沖縄と福島の人々のつながりをきっかけに、2012年から始めたツアーの参加者はのべ4000人を超えました。本業経営の傍らで、被災者となった同胞を支え続けています。ツアーのキャッチコピーは「知って、感じて、考える」です。被災地をまわり、古滝屋に戻って参加者との交流の時間も設け、福島の現状を発信しています。その原動力は「証言者としての役割」と「生き残ったものとしての使命感」であるといいます。里見さんはいま、古滝屋で働く坂本雅彦さんと二人体制でツアーのガイドをしています。結果的に古滝屋の利用客も増え、リピーターも増えました。

このように古滝屋は、地域住民だけでなく、ボランティアやスタディーツアー参加者も集まり交流する場となり、復興の拠点ともいえる役割を担っています。里見さん自身、震災前は宿泊客との関わりを気に留めていないことが多かったのですが、いまでは一緒にコーヒーを飲みながら語り合うようになりました。「100人の匿名のお客さんを無理に集めなくても、つながる1人が新しい100人の仲間を紹介してくれる」。震災を機に、大きく経営に対する心持ちが変わったのです。

温泉街の構造的課題の克服 あるものを磨く

いわき湯本温泉に限らず、多くの温泉街は高度経済成長期やバブル期の一時のにぎわいを失いつつあります。外国人観光客のインバウンドによって一部の温泉街に復活の兆しがみられるものの、「温泉街」という街のあり方そのものが時代の流れに取り残されてきたにもかかわらず、新たな街づくりのあり方を模索しきれていないのだともいえます。

原発事故は、こうした温泉街が抱える構造的な課題を一気に顕在化させたのでしょう。震災による物的な被害、原発事故による一時避難と海産物の汚染不安、復興作業員の受け入れと賠償金による一時的な「復興バブル」、戻らぬ観光客など、巨大な自然災害が温泉街を揺さぶり、構造的な問題の解決を避けて通ることのできない状況に追い込んだのです。また、地元の温泉街と共存共栄の関係にあった巨大リゾート施設のあり方も、震災と原発事故によって大きな変化を見せました。災害によって大きな危機を迎えたスパリゾートハワイアンズは懸命の経営努力によって、目をみはる復活を遂げつつあります。しかしながら、自ら宿泊施設を増築して、首都圏からの直行バスの増便で宿泊客を誘致するという経営スタイルは、地元の温泉街を再生する力にはなりえません。

温泉街と商店街は、どこか共通する構造を持っています。一つの旅館やホテル、店舗が繁盛しているだけでは、街は繁栄せず、いずれ衰退するリスクを持つのです。持続可能な街づくりのために、文字通り、「まちづくり」のビジョンを主体的な運動のなかから生み出す努力が求められているのであり、一人一人の経営努力や実践が共有されなければならないのでしょう。やはり、温泉街も商店街も、人が暮らす「まち」であることを忘れてはいけません。旅館やホテル、店舗だけの、カジノのようなあり方は成功しません。

いま、いわき湯本温泉では、これまでだれも経験したことのない原子力災害からの復興と再生という、明らかに困難な課題に取り組もうとしています。その課題の解決がむずかしいほど、そこに暮らす人びとの「まち」への愛着や誇りが糧となって、ユニークな経営や実践が生まれ続けるに違いありません。いまこそ、日本のどこにもない、世界でもまれな温泉街を生み出す好機と考えて、「ないもの探しをやめて、あるものを磨く」地域づくりの基本にじっくり取り組んでほしいと思います。

2018年5月15日

月刊『住民と自治』 2018年6月号 より

  • 里見 喜生
    里見 喜生(さとみ よしお)
    いわき湯本温泉元禄彩雅宿古滝屋代表取締役

    1968年福島県いわき市常磐湯本町生まれ。いわき湯本温泉で1965(元禄8)年から続く老舗旅館「古滝屋」16代目当主。

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