【論文】情報公開とオープンガバメントへの道

  • 山田 健太(やまだ けんた)
    専修大学人文・ジャーナリズム学科教授

2017年11月15日

月刊『住民と自治』 2017年12月号 より

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2017年を象徴する言葉が「情報隠し」です。その解決のためには、情報公開制度の充実が必要です。開かれた政府にしていくため、わたしたちに何ができるのか、考えます。

東京都市場豊洲移転、南スーダン自衛隊日報、森友学園、加計獣医学部での「情報隠し」に、社会の大きな関心が集まってからわずか3カ月、衆議院選挙が終わって世間の話題に上ることもほとんどなくなってしまいました。真相はいまもって明らかにされず、核心についてはほとんど何も解明されていないにもかかわらずです。結果的に、これらの問題が忘れ去られたという意味では、2017年秋の突然の衆議院解散・総選挙は、追及をいやがった当事者の思いが成就したものであったともいえるでしょう。

しかし一方で、各政党の公約や政策集を見ると、一様に国の説明責任の徹底がうたわれています。「国民への情報公開、説明責任を全うする」「国民への適切な情報公開体制の整備を図ります」「国や自治体の情報公開を進める」「徹底して行政の情報の公開をします」「国民の知る権利の立場に立って、公文書管理と情報公開のあり方を根本からあらため(ます)」──一体どの政党のフレーズか、ほとんど見分けがつかないくらい似たものです。

これだけ、各政党が情報公開の拡充を選挙公約に堂々と掲げた選挙戦は珍しいともいえます。少なくとも、政治家の側にはそれなりの問題意識とこのまま放置してはいけないとの危機感があるということの表れであるといえるのではないでしょうか。そうであるならば、いまわたしたちがしなくてはいけないことは、決して「忘れさせないこと」であって、まっとうな情報公開制度を日本に定着させることにほかなりません(ちなみに、前出公約の政党名は前から順に、自民党、公明党、希望の党、立憲民主党、共産党です)。

車の両輪

広義の〈情報公開〉制度は、公的機関で収集・作成されるあらゆる記録を、きちんと保存・整理するためのルールを定めた公文書管理法・条例と、これら公文書を求めに応じて開示し、それによって説明責任を果たすための情報公開法・条例から成り立っています。日本の場合は、2001年に行政機関情報公開法ができてから10年間は文書管理法が存在せず、その結果、大事な記録などの散逸が起こる事態も招いてしまいました。

そもそも日本のカルチャーとして、きちんと記録を残すという習慣がないことも影響しています。いい換えれば、都合が悪いことは可能な限り「なかったことにする」という行動原理があるということです。その典型例は、敗戦時に日本軍が、その軍事記録の多くを焼却処分したことに現れますが、同じようなことは「いま」でも起こっています。たとえば、閣議や国家安全保障会議など、政府のなかの大事な会議ほど、議事録を残さない、記録をとらない、といったことが当たり前のようにルール化されてきているのです。

そもそも存在する情報を見せるか見せないかではなく、究極の「見せない」といえる「不存在(存在しない)」という事実を着々と作り続けているということになります。沖縄返還交渉時の日米政府間の密約については、国会で公開するように求められたことに対し、外務省は一貫して存在しないといい続けてきました。しかし米国側で密約文書が開示されたことで、「嘘」を突き通すことはできなくなったのです。

それでも政府は今日に至るまで、文書は存在しないといい続けるさまは、滑稽ですらあるといえましょう。そうした事態を受けて裁判所も、「廃棄した可能性」についていうのが精一杯でした。いわば政府は、国会も裁判所もだまし続けてきたわけで、これはわたしたちを欺き続けたことにほかならないのですが、残念ながらおとがめを受けるばかりか、そうした態度が政治の世界でも役所のなかでも、むしろ賞賛の対象にすらなってきています。

それはたとえば、森友学園の情報隠しに関し、官邸の意向を受けたとされ、文書の不存在を強弁し続けた担当者が、その後、処分を受けるのではなく厚遇されていることからも見て取れます。ここでは、公文書は国民のもの、ではなく、あくまでも組織や自分の保身をはかるために利用するもの、にすぎないことがわかるのです。

さらに別の事実としては、公文書の保存や開示がルール化されるたびに、役所が文書の大量廃棄を行ってきたことも明らかになっています。具体的には、情報公開法と文書管理法の施行直前にそれぞれ、中央官庁で大量廃棄が確認されています。もちろん、どんな文書が捨てられたかは知る由もありませんが、いままた、同じ「過ち」が起きようとしています。

それは最初に触れたような事案において、現行制度の穴であった保存期間が1年未満であることを理由として、本来保存されるべき文書の廃棄が次々と明らかになるなか、行政文書管理ガイドラインの規定改正が行われる予定があるからです。このように、事あるごとに、政府機関が「積極的に廃棄」という選択をし続ける状況があることを、残念ながら肝に銘じ、その対応策を取っていくしかありません。

歯止めの重要性

そのためには、法制度、運用、監視の、三位一体による「歯止め」をきちんと実行していく以外にないと思われます。たとえば、情報公開法は2001年の施行段階では、世界のなかのギリギリ第1集団に入っていたかもしれません。しかしその後、一度も改定されることなく15年以上放置され続けた結果、情報公開制度が「普通の国」のスタンダードになったなかで、いまや明らかに見劣りする内容となり、完全に周回遅れの最後尾にいる状況です。

デジタル時代に対応していないことはもちろん、適用除外の曖昧さも残されたままです。何よりも、法の趣旨がねじ曲げられて解釈され、問題指摘があるたびにより情報隠しが巧妙化する状況に歯止めをかける必要があります。情報公開が「行政サービス」の一環であるような運用状況を招いている現状を考えると、憲法から直接導かれるところの「知る権利」を具現化した法制度であることを、法律上で明記することも重要であるといえるでしょう。

また、情報公開制度は、会議と記録の公開が二本柱でなくてはいけません。曲がりなりにも後者については制度があるわけですが、いまだ前者については、意思決定過程情報であることを理由とした、原則、会議非公開が続いています。さらには、議事録の公開も要旨の公開によってお茶を濁す事例が後を絶ちません。

以上は政府を念頭においたものですが、そもそも情報公開の対象は行政だけではないことも忘れてはなりません。日本においては、国会(立法)と裁判所(司法)はいまだ情報公開の制度を持っていません。従来は、国会や裁判所は一般市民が傍聴もできるし、その公開は憲法で定めがあるから問題ないとされてきました。いわば行政ではほとんど非公開の会議に該当する、議会や法廷が開かれていることへの評価ということになります。

また、その記録である議会議事録は、官報などによって完全公開されています。判決文についても事実上、その多くは公開されている実態がありますし、それ以外の裁判記録についても法条文上は原則開示が定められています。しかしこうした目に見える部分以外の司法行政、国会事務に関する公文書はほとんど何も公開されていないのです。

その結果、国会が設置した東日本大震災に伴う原発事故の調査委員会の報告書は、開示を定めた法律がないので公開されない(見ることができない)という事態が続いています。国民のだれもが体験する予定の裁判員に関する裁判所の規定も、その多くは秘密です。現状は、これらの文書は運用規定に従って、あくまでも当該機関のサービスの範囲で、特別に見せてもらえることがある、というだけにすぎません。

そもそも、裁判所についていえば、その判決文の公表も恣意的な判断によるものですし、裁判記録に至っては個人が閲覧をできる可能性が限りなくゼロに近いのが現実です。法廷内のメモは、これまた裁判所の「お目こぼし」によって採ることが許されているものの、録音や撮影は一切禁止のままが続いています。これらは決して当たり前のことではなく、日本の司法の閉鎖性が招いた結果であることを知っておかねばなりません。

そしてもう1つ、情報公開制度の大きな柱は政治家情報です。日本の公開制度のきっかけの1つが疑獄事件であっただけに、早くから政治家のお金にまつわる公開制度が整備されてきました。フローを見る政治資金規正法と、ストックを知るための政治家資産公開法です。いずれもザル法といわれて久しいわけですが、それでも半歩後退一歩前進で少しずつ改善されていると信じたいものです。

いまは、むしろこうした制度改定よりも、規正法の公開データをデジタル化によって一元的に整理することによって、いままで見えなかった金銭の流れが可視化されるなどの、「技術革新」に期待が寄せられているといえるでしょう。ただしこれも、現在は市民グループなどのボランティア作業の上に成り立っているわけですが、本来であれば、こうした見えやすい形に加工するまでが、国や自治体の役割ではないでしょうか。

監視をビルトイン

さらに運用上の歯止めも重要なポイントです。先にあげた文書管理ルールをねじ曲げて、勝手に廃棄してしまうなどは、まさに運用上の誤用そのものだからです。しかしながら、こうした問題は新しいルールを作れば、さらにその抜け道を考えるといった、尻抜けになる可能性を常に含んでいます。なぜなら、政治家や役所は、常に「隠す」方向にマインドが働いているからです。それは秘密保護法議論の際に、放っておけば秘密は幾何学的に増大してしまうことを前提に、どのような制度設計をするかが議論されたのと同じです。

だからこそ3つ目の「監視」が肝になるといえるでしょう。ここでは、情報公開の最大の壁でもある秘密保護制度で考えてみましょう。その場合の監視制度には大きく4つが考えられます。行政内部、国会、司法、そして市民です。

最初の行政自身によるチェックが基本であることはいうまでもありません。情報公開制度では、行政不服審査制度を活用した審査会が、大きな意味を持っています。わたしたちは、行政機関の開示・不開示の決定に対し、とても簡単な方法で、しかも無料で、その「見せたくない」との行政処分を見直してくれるよう、第三者の審査会での審議を求めることができるからです。

しかし一方で、たとえば特定秘密保護法ではこうした機能を真剣に設けようとか、しっかり運用していこうとの気概は見られません。確かに、法制定後に大急ぎで作りはしたものの、可能な限り実効的に機能しないようにしたとしか思えない作りになっているからです。それは、ヒト・モノ・カネのすべての面についていえます。期限付きの出向者によって構成された組織が、出向元の組織にとってマイナスになるようなチェックができるとは思えません。しかも調査に強制力もなく、隠したいものは隠し続けることができる余地を残しているからです。これでは監視にならないことは明らかです。

また、司法のチェック力も、その効果的な力を持てずにいます。本当に秘密に値する実質秘かどうかは、現物を見なくては判断がしづらく、結局、役所のいうままにならざるを得ない面がありますが、海外で採用されているインカメラといわれる裁判官が該当文書を見て判断する仕組みはありません。国会によるチェックも同様です。

そうなると、最後のとりでは「市民力」です。特定の領域のプロフェッショナル集団であるNPOやジャーナリズム活動がこれにあたります。何が秘密に指定されているかもわからない状況のなか、さらには重要であるほど長期の秘密指定が可能なわけですから、長い期間にわたって専門家の目で監視し続けることで、初めて見えてくるものがたくさんあります。

あわせて、短期的な追及力や場合によっては資金力は報道機関のほうが優っているかもしれません。なによりも、内部告発の受け皿としてジャーナリストは欠くことができません。端的な例として、アメリカのエドワード・スノーデン氏の国家の個人情報収集に対する告発は、ジャーナリストの存在があったからこそであったことを、スノーデン氏本人も繰り返し語っているところです。

こうした総合的なチェックシステムが社会にビルトインされていて初めて、情報公開制度はまっとうに機能していくといえるのです。それからすると、残念ながら日本はそのどれもがまだまだの段階です。もちろん、国会や司法、そして何よりも行政の内部チェック力を高めることが強く期待されていますが、険しい道のりが想定されます。

それであれば、あるいはそれだからこそ、とりわけ、最後の市民力をわたしたち自身の力で強めていくことが求められているといえましょう。

情報共有で民主主義育む

日本ではそのほとんどの法律が内閣提案であって、議員立法ですら珍しい状況があります。そうしたなかで、情報公開法は紛れもなく市民発の法制度です。1960年代の公害に対する命を守る闘いがその重要なベースになっています。その他、政治疑獄や消費者運動も、この制度の必要性を痛感させるものでした。そして1980年代に入り、議員を巻き込んでの制度作りの動きが本格化し、各地方自治体で情報公開条例が制定されていきました。

神奈川県や同県川崎市などがその先駆けであったわけですが、この動きはあっという間に多くの自治体を巻き込み、まさに中央に攻め上がって行ったわけです。ちょうど自民党一党政治の終焉とも重なり、1990年代に入り法制化の動きが加速化し、情報公開法の制定に至りました。こうしてみると、国・自治体の「見える化」を進めてきた原動力は、まさに市民であったことがわかります。だからこそ、先に触れたとおり、市民力によって社会の可視化を進めることに現実味があり、いま進めていく必要があるといえます。

しかも世界の潮流も、こうした市民力による情報公開を後押ししています。オープンガバメント(開かれた政府)の動きです。これは政府と市民社会が協力し合いながら、その社会が抱える課題を発見し、解決しようという取り組みです。たとえば、「Open Government Partnership:OGP」という枠組みには、世界の70近い国々が加入し、それぞれが国内アクションプランを公表し、国内改革を進めています。残念ながら日本では、政府がなかなか乗り気ではなく、スタートが切れていない状況ですが、こうした動きを一歩一歩進めていくことが大切でしょう。それこそが、社会のなかで情報共有を進め、民主主義を育てていく早道であると思います。

2017年11月15日

月刊『住民と自治』 2017年12月号 より

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