福島原発事故被災地—南相馬視察報告避難指示解除でも20㍉Svでは住民は帰れない ~原発事故から5年9か月の南相馬市小高区~

埼玉自治体問題研究所
木村芳裕(研究員・理事)


2016年12月1〜3日、原発事故から5年9カ月になろうとする南相馬市を訪れました。小高地区の避難先の鹿島区にある仮設小学校、福島第一原発から20㌔圏内の南相馬市小高区の現状、小高区に戻ってきた高齢者の仮住居、鹿島区にある仮設住宅、小高から転居して鹿島区で花屋を始めた人から話を聞きました。

下図は避難指示区域です。2016年7月12日から、南相馬市の南部の小高区は避難指示解除準備区域と居住制限区域でした。

2012年4月1日、国は、①12年3月から数えて5年以上戻れない帰還困難地域(年間放射線量50㍉Sv超)②数年での帰還をめざす居住制限区域(同20㍉Sv~50㍉Sv以下)③早期の帰還をめざす避難指示解除準備区域(同20㍉Sv以下)—の3区域に再編すると決定。②と③は住民の立ち入りが自由だが、原則宿泊できない。①は立ち入りが制限される。と決めました。

ところが2016年7月12日、「空間線量率で推定された年間積算線量が20㍉Sv以下になることが確実である」地域であれば、居住制限区域と避難指示解除準備区域であっても一気に解除されることになりました。

つまり、これまで一時帰宅や製造業・農業の再開等は認められるものの宿泊は禁止されていた地域が、今回は20㍉Sv以下であれば、居住しても良いと規制緩和され居住制限が解除されました。20㍉Svであっても住め、戻れというのです。

ICRP(国際放射線防護委員会)は一般の人は1年間で1㍉Sv以下と線量限度が定めています。そして、20㍉Svというのは、緊急時の公衆の被爆レベル、あるいは放射線作業に従事する作業者についての線量限度で、5年間が限度です。20㍉Sv以下であれば、居住しても良い、などといえるものではありません。

仮設小学校の在籍率は20数%

最初の仮設の小学校では校長先生が説明、案内してくれました。

南相馬市の南部にあたる、福島第一原発から20㌔圏内の小高区はこれまで避難指示解除準備区域、すなわち年間1㍉Sv以上20㍉Sv以下の地域でした。20㌔圏~30㌔圏内の原町区や30㌔以上の鹿島区は避難指示区域に指定されてきませんでした。

避難状況(2016.10.24現在)
避難状況(2016.10.24現在)
小学校の在籍率
小学校の在籍率

それは小中学校の在籍児童生徒数に現れています。避難状況にも表れています。

3・11東日本大震災·原発事故の年は、避難指示の出なかった原町区、鹿島区の小学校はそのまま存続しました。しかし、20㌔圏内の小高区の4つの小学校は移動を迫られ、鹿島区内の3つの小学校に分かれて移動しました。

2011年4月22日、市の北部の鹿島区のそれぞれの小学校において始業式が行われ、その小学校内で授業が始まりました。その後、鹿島小校庭の仮設小学校を経て、翌年4月からは鹿島中学校校庭に仮設校舎が建てられ、そこで4つの小学校の授業が再開されることになりました。2014年11月には仮設体育館も作られました。

避難指示区域の概念図
避難指示区域の概念図

クラスは2011年以降、小高区の小学校在籍率は予定数の20数%と低く一部まとめられましたが、2016年度から小高区の各小学校は統合されて教室が空き、特別教室も作ることができました。

今年度は3学期が終わった後に小高小に戻ります。来年入学する1年生は4校合わせて3人の予定です。

これからの課題の一つに卒業生問題があります。仮設住宅があるので鹿島中に転校しようか、あるいは仮設の家では隣の音がするので引っ越ししようか、引越しのお金はどうしようかなど、それぞれの家によって様々な問題を抱えています。だから6年生の子は、来年はどこへ行くとは話しません。

小高に住んでいいと言うけれども今は線量が高い。校庭でも0・14㍉Svから0・15㍉Svあります。近くの公園も同じ線量です。運動は校庭で行いますが、ハイキングはバスで仙台に行きます。花壇については土を農協で買ってきてプランターで栽培しています。

みんなで改善提案期限に自宅に戻れるか仮設住宅に訪問

仮設住宅に入居している高齢男性に聞きました。

原発事故後、まず、体育館で避難所暮らしとなった。5月から天童市のホテル住まいになったが、部屋は狭く、父母と4人暮らし。要介護だった親との同居だったので生活時間が違い大変だった。仮設には2011年8月から入居することができた。(仮設住宅は四畳半2間と同じ広さに、玄関と台所、風呂などがついています。)

仮設住宅は最初は出身行政区ごとにまとめるとしていたが、入居者が一度に申し込まないので、途中からは出身行政区ごとにまとめることはできなくなった。住宅の改善については、みんなの意見で、火災になると長屋作りは隣に延焼するのでストーブはダメ、プレハブなので冷暖房保温のためにペアガラスにする、フローリングから畳にする、風呂は追い炊きにする、物置を設置する、ネズミが水道の配管をかじって水漏れするので修理する、天井に黒カビが生える、などを改善させてきた。それでも、冬にはガラス戸から水滴が床に落ちて、畳がふやけている。後付けの設備にかかったお金は、住人は負担しないが1軒で200万円だった。

私は、これから自宅に戻ろうと思って小高区の自宅の屋根を200万円かけてリフォームしたが、畳を剥いだら床もボロボロだったので罹災(りさい)中請をして解体し建て替えることにしている。

仮設住宅は2018年の4月には出て行かなければならないが、大工が忙しくて解体や建設も間に合わない。地元以外の建築業者に頼んだ場合、家の解体から出る建築廃材の処理も20㌔圏内の建設業者が優先なので、遅くなり頼むこともできない。これも放射能を受けている建物のチェックということで必要なのだろう。

借り上げ住宅や自主避難も来年の春には期限切れになる。仮設住宅は2018年度の春までに空けなければならないことになっているので、来年の春には集約されるだろう。しかし、2018年度の春にまでに移り住める家がないなら、さらに延期されるのではないか。

仮設住宅はここでは125戸あるが出ていった人もあり、現在の入居は72戸となっている。生業が回復しないので若い人は、このような避難先の仮設住宅の所では仕事が確保できない。結局、仮設住宅には隠居だけを残すことになる。高齢者だけの限界集落になる。

現在、応援に来ている人の宿泊で町内のアパートも満杯になっているので、応援に来ている介護士などが代わりに仮設に入っている。

災害廃棄物の焼却炉。放射能も測定しているが検出されないとしている
災害廃棄物の焼却炉。放射能も測定しているが検出されないとしている

除染廃棄物で田が潰れていく 案内してくれた議員の話

6.2㍍の防波堤を越えた津波にのまれた家や学校の跡、無数に積まれた1㍍くらいの黒い袋の群、5年9カ月たっても手がつけられない津波で半壊の点在する家、外傷がないが戻れないで放置されている集落を案内しながら、地元の議員さんは言います。「今年7月12日に避難指示が解除されたが、一方で除染廃棄物の仮置き場を広げている。国道沿いには除染した廃棄物が連なっている。3年間だけ田んぼを借りると言っていたが、それは5年間に伸ばされた。そして5年過ぎた今も、田んぼを潰して仮置き場を広げている。増設されると風評が広がり農業にいい事はない。放射性廃棄物の焼却炉(現地では減容施設と書いている)も作られ稼働している。除染で環境が悪くなっている。置き場がないと言うのなら、ここに置いて農地や農業をダメにするのではなく、電力を大量に消費している東京に持っていけばいい。汚染水のタンクが間に合わないと言うのなら東京湾に流せばいい。そうでもしないと福島の苦しみをわかってくれないのではないか。自分たちは東北電力を使っているのだから、と言う人もいる。」と言っていた。何のための除染なのかわからない。

福島県外のみんなが声を上げなくては

政府は解除基準を、これまで一般人に適用してこなかった20㍉Svに引き上げ、帰還させようとしています。さらに、借り上げ住宅の入居を終了し、自主避難者への支援を打ち切り、経済的に強要しています。それに対し、福島の若いパパやママは子どもを守るために抵抗しています。安心して学べるためには線量を1 ㍉Sv以下になってからというのが何よりも大事だと思いました。こんな状況下では住人も戻らず、商店も成り立ちません。買い物もできなければ人は戻ってきません。

連なる除染廃棄物の山
連なる除染廃棄物の山

しかし、政府は40年を過ぎた原発を相次いで再稼働させています。例外が例外でなくなっています。福島にいない多くの人々が声を上げなければ、緩和された解除基準が放置されていきます。

子どもの健康が触まれ、子どもを守る若い親が締め上げられ、一部の地域問題として容認されていきます。福島の人たちの、命が、健康が、くらしが脅かされていることへの心の叫びを、自分のこととして感じてほしい、そして声を上げてほしいと思いました。