【論文】小学校統廃合の地域生活にもたらす問題

  • 中林 浩(なかばやし ひろし)
    神戸松蔭女子学院大学教授

2017年12月26日

月刊『住民と自治』 2017年11月号 より

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小学校と小学校区は日本の優れた伝統的な地域のシステムです。いま新たに小学校統廃合が急速にすすんでいます。しかも京都市では小学校跡をホテルに変えようとまでしています。

重要な計画単位としての小学校区、自治の単位でもある

都市計画学においては、地域は重層的な構造をもちますがとりわけ小学校区を重視してきました。小学校区はとても重要な計画単位であり、小学校自体のもつ地域の拠点としての意味も大きなものがあります。単純にいうと歩行を前提とした生活圏の計画単位だということがいえます。そもそも都市計画学では「○○理論」というのが少ない学問なのですが、1924年にクラレンス・ペリーが提起したこの近隣住区理論(小学校を中心として日常生活に関わるいろいろな施設が完結すべきだとする考え方)は、こんにちでも存在感があります。近隣住区理論は日本のニュータウン計画でもとりいれられました。

近隣住区理論でも人口は5000~6000人が想定されていましたが、クリストファー・アレグザンダーも1977年に出した『パタン・ランゲージ』で、「7000人のコミュニティ」という概念を提起しています。地域で直接の自治を行うにはこの程度の人口が適当だというのです。優れた都市のあり方をうまくいいあてています。とりわけ日本にうまく当てはまります。日本の場合、小学校の規模は欧米に比べて大きいのですが、市街地の連担する都市部では、およそ人口1万人で小学校区が形成されます。20万都市であれば20ほどの小学校があります。ちなみにこうした規模の都市では商店街組合の数も20ほどあります。小学校と商店街、教育と購買が、歩いて暮らせる生活圏の基本であることをよく示している現象でしょう。農村部では小学校は人口1000人に一つとか3000人に一つというようなことになります。7000人ほどが日本の小学校区の平均像ということになります。人口数百人で構成されることの多い町内会というのは、そこの住民の顔が知られる領域です。それに対して小学校区は人の顔まではわかりませんが、おおよそその範囲内のどこがどんなところかがわかる領域です。だから住民が自治の力を発揮して計画的にものごとを進めることのできる単位なのです。

高度成長期の小学校統廃合

1960年代から70年代にかけては農村部では過疎が進行し、複式学級になったり複々式学級になったり、分校が廃止されたりしつつ、小学校の統廃合が急速に進みました。中小都市や農村部で明治終盤に市制町村制が始まったときに町村となり、昭和の大合併まで続いた町村を「旧村」と呼んでおきます。一町村に一小学校だったところが一般的でした。昭和の大合併を経て、旧村は小学校区となったわけです。1890年ころから60年ほど行政単位であったのものが、その後も小学校区であったということです。

京都府北部の丹後地域でも人口減少はいちじるしく、小学校は再編され続けています。1970年代に、筆者は広原盛明氏や中島煕八郎氏らと京都の丹後地域で自治圏域とはどういうものかという調査をしました。集落は農業生産をささえる単位ですが、地域がかかえる問題を解決するには小さすぎるので、旧村が重要だと主張してきました。丹後の旧大宮町では8つの旧村がありました。つまり小学校・小学校区も8つでした。1970年代には4つの小学校になっていましたが、旧村はまだ存在感のある単位でした。その後平成の大合併で、大宮町は久美浜町・網野町・峰山町・丹後町・弥栄町との6町合併により2004年に501平方キロもある広大な京丹後市となりました。現在では旧大宮町の範囲では小学校は2つになってしまいました。京丹後市全体では2010年に小学校は30校ありましたが、現在は19校になっています。この合併は小学校の統廃合をも加速させました。小学校区でもなくなった数十の旧村が京丹後市内にあるということになります。旧大宮町の範囲では平成の大合併前は8つの旧村が町とつながっていた密度と比べると、自治体との関係はずいぶん希薄になったといえます。しかしながら、合併前の大宮町で旧村単位の村おこし委員会ができました。もっとも周辺部にある旧村常吉では、農協支所もなくなるなか、「常吉村営百貨店」という購買施設をうみだしています。

京都市域での小学校統廃合

高度成長期は農村部を過疎にしたと同時に、大都市中心部でも人口を減少させ、小学校はつぎつぎに消滅していきました。ターミナル駅周辺や業務地域化した都心にあった小学校は問題にされることもなく失われました。

京都市は中心部に西陣織や友禅染の工業生産機能を有し、人口密度が高かったため、都心部の小学校の多くは存続していました。京都市域の都心の学校統廃合が社会問題となるのは1990年代です。

1869年明治になってまもなく、京都では地域組織が再編され、行政の役割を持つような拠点として「番組小学校」と呼ばれる小学校が64校できあがりました。その範囲はこんにちでも「元学区」と呼ばれ町内をたばねる自治連合会を構成しています。これらの小学校には愛媛県八幡浜市立の日土小学校とか長野県松本市立の開智小学校に匹敵するような名建築が多く、市民から愛されてきました。

1992年に下京区の市立洛央小学校が5校の統合によってできたのをはじめ、都心区の小学校が激減しました。京都市当局は小規模校では児童の学力・競争力が上がらないということを宣伝しました。一学年が数人というような規模のところではPTAでも賛成意見が多くなります。またこれは小学校区単位で構成される自治連合会の賛成も取りつけます。自治連合会は上意下達の組織としての性格をもちがちなところが問題です。住民・保護者・教職員のあいだでも反対の意見がありましたが、運動を展開しにくい状況がつくりだされました。教員数を削減し施設・設備の省略を図るというのが小学校統廃合の行政側のねらいの中心ですが、教職員組合や地域の分断ももたらすという効果さえねらっているかのようにすすみました。

低層高密で工業や商業がほどよく混ざった京都市の都心居住地をくずしていったのは、都市計画の失敗です。高層建築が許されているのでオフィスや駐車場も増え、また投機用のマンションやワンルームマンションが増え、人口密度を下げる土地利用がすすんでいきました。2000年ごろまでの高層化は人口を激減させながらすすんでいきました。いまのところ京都市では「元学区」と呼ばれる旧小学校区は自治連合会の単位として維持され、「小地域」と称され統計区としても残っています。30年ほど前の統計をみると、都心の元学区で就業する住民の3割もが製造業に従事していたことがわかります。都心に根付く伝統工業の衰退とともに、高層ビルや駐車場が景観を乱し、小学校も消滅してきた歴史を物語っています。

御所南小学校・京都御池中学校の怪

2000年ごろになると、新しくできるマンションも大規模になりファミリーマンションが増え、都心回帰現象もあり、やや人口が回復しました。合併した小学校が手狭になるというような皮肉なことも起こってきます。

狭い校庭にプレハブ校舎の建つ御所南小学校
狭い校庭にプレハブ校舎の建つ御所南小学校

人口減少のいちじるしかった中京区東部にある市立御所南小学校は、1995年に統廃合で開校しました。先端的な教育を行うことをうたい文句にしていて、NHKがとりあげ不動産屋も「学力全国一」と宣伝し、マンションを販売しました。1995年開校当時600人ほどであった児童数が、1200人を超えてしまいました。もともと狭いグラウンドにプレハブの校舎が建ちました。研究授業などが多く現場の教員には過重労働で病気になったりする問題も発生していました。

同じく中京区東部の市立京都御池中学校は2003年柳池中学校と城巽中学校を統合し開校しました。校舎はPFI方式で民間活力を利用して建設されました。1階には飲食店が入るという奇妙な校舎ができました。しかも2007年に京都市小中一貫教育特区として認定され御所南小学校と高倉小学校の6年生だけを通わせることになりました。人口減少の都心にマンションが林立し人口増をもたらし小学校が手狭になり、6年生だけが京都御池中学校の教室を間借りすることになったのです。これらの学校には多額の予算がつぎ込まれている一方で、京都市内の他の小中学校では、施設・設備の老朽化が問題になってきましたが、なかなか改善されません。

1階に飲食店の入る京都御池中学校
1階に飲食店の入る京都御池中学校

第二弾の小学校統廃合

第二弾の統廃合は2010年代に入って起こりました。東山区も都心区の一角にあり、屈指の観光地をかかえますが、京都市内ではもっとも人口が減っているところです。5つの小学校と2つの中学校で市立開睛小中学校、3つの小学校と1つの中学校で市立東山泉小中学校ができました。もともと区内に13あった小学校はたった2つになってしまいました。前述の京都御池中学校のように変則ではなく、施設一体型の小中一貫校です。東山開睛館は69億円もの巨費を投じましたが、地下2階に体育館があったり、運動場が狭く大きな樹木が校庭にはなかったり空間的な問題があります。農村部の統廃合ほどの距離がないとはいえ、通学では自動車交通量の多い道をなんども横切らなければなりません。スクールバスがあるわけではなく市バスで通学する児童もいます。放課後小学校校舎で遊んだり道草をしたりする小学生の姿が消えてしまいました。調査をした小伊藤亜希子氏は「バスでしか行けない小学校のグランドは遊び場の選択肢の一つにはならない」としています。

学校跡地がどうなるのかという課題もあります。1990年代の統廃合では廃校が福祉施設になり、旧市立明倫小学校跡は京都芸術センターになり、旧市立龍池小学校は京都国際マンガミュージアムにと、当然のように地元利用や公共的な利用の施設になりました。ところが、おどろくべきことに、近年の京都市は京都市公共施設マネジメント基本計画のもと、旧市立清水小学校や旧市立立誠小学校の跡地をホテルに変えようとしています。地元住民の利用ができない施設になろうとしています。

京都国際マンガミュージアムになった旧龍池小学校
京都国際マンガミュージアムになった旧龍池小学校

統廃合はなにをもたらしたか

こうして京都市では都心区にあった小学校68校を17校にしました。

大規模な統廃合がすすんでから20年以上たつ下京区では次のような声が聞かれます。小学校跡は自治連合会の行事にはよく使えるが、新しい利用や子どもの遊び場としては使えません。もとの小学校区を超えるような子どもの遊びの交流は少なく、高齢者も孫のための参観日や運動会への参加が少なくなりました。統廃合前にいわれていたような切磋琢磨する子どもを育てるという目標は検証されているのかという疑問もでています。

ホテルになろうとしている旧立誠小学校
ホテルになろうとしている旧立誠小学校

現在、南は西陣に面しますが、郊外としての性格ももつ北区でも統廃合の動きが出ています。北区の市立元町小学校のPTAで「統合に向かう」という決議があげられたのを受けて、「北区の教育とまちづくりを考える会」では全世帯を対象にしてアンケートをとり288世帯から回答を得ました。統合に賛成22%、統合に反対45%、どちらともいえない30%という結果を得ています。同会は十分な討議が行われるように、また若者が住みたいと思い、安心して子育てができるまちづくりがすすむようにと運動しています。

100年以上の歴史をもつ地域組織、元学区はたしかに強固であり、現在でも生き続けている地域の単位です。しかし、小学校区とのくいちがいがあるため、しだいに意味がうすれていくと危惧されます。全国的には小学校や小学校区のあり方は多様でもありますが、小学校と小学校区の意味あいは本質的に共通なものがあります。地域ぐるみで育てなければならない6歳から12歳という子どもをかかえます。かれらは行動範囲が限られますが、住民はそれだからこそ日常生活に根ざした場所をその範囲に作りあげてきました。これ以上の小学校統廃合の進行は、誇るべき日本の伝統的な地域の集積をますます損なうものだといわざるを得ません。

謝辞 いずれも地域のまちづくり運動にとりくまれている、京都市下京区の古澤房子さん、北区の人見吉晴さん・伊藤和さんから貴重な情報を得ました。

2017年12月26日

月刊『住民と自治』 2017年11月号 より

  • 中林 浩
    中林 浩(なかばやし ひろし)
    神戸松蔭女子学院大学教授

    京都市域などの景観問題や観光問題、また都市計画史研究にとりくんでいる。京都大学大学院博士課程修了、博士(工学)。

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