【対談】おきなわ住民自治研究所設立記念対談 沖縄に憲法を、地方自治を


おきなわ住民自治研究所設立にあたって

宮本

わたしが最初に沖縄に調査に来たのは1969年のことで、実は自治体問題研究所から依頼されたからです。当時、沖縄はベトナム戦争基地になっていて、間もなく日本に復帰するので沖縄の実情を『住民と自治』などに書いてほしいということでした。柴田徳衛さんとわたしの二人で沖縄に入りました。そのころの沖縄はビザが必要で、琉球大学の久場政彦さんと屋良朝苗琉球政府行政主席(当時)が保証人になってやっとビザがおりました。わたしたちはそこで、軍政下の沖縄の深刻な住民生活の状態、いかに沖縄に自治権がないか、軍政と自治、あるいは戦争と地方自治は両立できないということを骨身に染みて感じました。道路に交通安全施設がまったくついていないなど、あらゆる施設が全部軍用でした。わたしたちは、平和憲法の下ではじめて地方自治が保障できるのだということを感じました。

このたび沖縄の皆さんにがんばっていただいて、1969年以来願っていた研究所ができたのはうれしいことです。いま、地方自治とは何かを考える焦点が沖縄にあります。沖縄に研究所ができて、地方自治の重要性を改めて人々に知らせる機会になると期待しています。

真栄里

沖縄の戦後は、アメリカの全面的な軍事占領の下で琉球政府を置き、行政主席は、一時民選だった四群島知事を米軍の任命制に変え、民主主義のショーウインドーとして民選の琉球立法院をつくりました。行政は米軍の布令布告の範囲内で、自治権は奪われていました。そのときから沖縄は自治権を求める運動をずっと続けてきました。一番大きなテーマは主席公選=知事公選でした。1965年に立法院が日本国憲法記念日を制定し、それ以来、沖縄は日本国憲法の下への復帰を一貫して掲げて祖国復帰運動が行われました。そのなかで実現したのが1968年の主席公選でした。初めて自分たちの代表である行政主席を公選することができました。そのときは、主席公選、那覇市長選挙、そして県議会選挙にあたる立法院議員の三大同時選挙で革新共闘会議(通称・明るい沖縄をつくる会)は全面勝利をおさめました。

1972年に返還を迎えましたが、しかし「核抜き本土並み返還」の宣伝とは裏腹な基地の使用を固定化し継続していく返還だということが次第にはっきりしてきました。「復帰に関する建議書」もまったく無視されました。本土では憲法が形骸化されていて、その形骸化された状況が沖縄に押し付けられてくるという側面がありました。だから沖縄の復帰は、日本国憲法の初原の生命をよみがえらせ、それを本土に差し示す運動だということもうたわれたのです。

復帰をして地方自治法が適用されるようになりましたが、市町村の段階では職員研修もあまりきちんとやられていませんでした。沖縄の場合は、行政が民主化されて住民自治を基本にして行政をやるというよりも、本土の中央集権的行政にあわせる形で復帰後の行政が行われるという流れで、中央政府との関係でいろいろな問題が出てきても政府主導ではうまく解決できないという悩みをずっと抱え続けてきました。

とくに最近は、政府が沖縄県民の要求をまったく無視し、県民の声を顧みないやり方を強行しているだけに、ここでもっと自治権の問題を前面に据えていくことを考えなければいけません。そういうことで住民自治研究所ができました。日本国憲法の全面的な展開をめざす闘い、憲法に基づく社会づくりをめざすという決意をあらためて立てています。

環境保全と基地問題について

──

日本は環境影響評価制度が他国と比して遅れています。たとえ基地が数十年でなくなったとしても、基地建設や改修によって破壊された環境は永久に戻ることはありません。名護市の辺野古新基地建設は、環境政策と地方自治に対する重大な侵害です。沖縄県や名護市などの自治体は沖縄の環境を保護する責任を負っています。

宮本

沖縄の最大の財産は自然環境だと思います。沖縄復帰のときに日本政府が出した沖縄の振興計画を見ると、当時行われていた全国総合開発計画、つまり石油コンビナートを中心にした重化学工業の基地を造り、その波及効果で地域を開発するという方式をそのまま沖縄に持ってくるということになっていて驚きました。そのころは四日市ぜんそく訴訟がおこっていて、公害対策で革新自治体が誕生するなど、拠点開発方式が失敗であることが明らかになり始めていたのに、大規模なインフラ、公共事業を進めて石油、アルミ工場誘致をするとし、鉄道ではなく高速道路を中心にした道路体系を整備する振興計画を立てていました。

わたしは、これでは沖縄の風土にあっていないと考えました。沖縄で一番重要な自然環境、そして沖縄の文化に根差した開発でなければ沖縄の発展はありえないのに、この本土並みの政策は大変な環境破壊になると思ったのです。それで友人だった琉球大学の久場政彦さんと3回にわたって雑誌『世界』に、沖縄の経済開発はどうあるべきかという提言を書きました。

第1は、沖縄で一番自立的発展をするにふさわしい場所は本島中南部の基地の地域です。しかし日本政府は基地をどうするかということは当初ごまかしていました。復帰政策が進むにしたがって、基地を残して、本土にある基地も整理して沖縄に持ってくるということがはっきりしてきました。われわれは、基地の解放なくして沖縄の発展はありえない、基地を縮小・廃止して沖縄独自の環境、文化に基づいた開発計画を立てるべきだという提案をしました。

わたしとしては、沖縄は環境保全を基準にして開発や発展を考えるべき場所だと思っていました。環境が沖縄にとって一番大きな財産なので、それを維持して観光や農業の発展を考えればよいのです。客観的にみて、沖縄は国際的な環境モデルになりうると思っていました。

わたしは、2016年の日本環境会議で提案しましたが、沖縄県は環境権を条例で設定すべきであると思います。これはまだ本土でも法律がない。沖縄は環境権をもっとも主張しやすい地域なのでこれを提案すべきです。おそらく政府はそれを法律違反だといいます。しかし法律違反だといわれても、それを主張していくことで全国の環境団体や環境研究者が支持をすると思います。かつて東京都が、政府が作った公害対策基本法に不備があるということで東京都公害対策条例をつくって非常に厳しい公害防止規制をかけました。政府は法律違反だといって規制にかかりましたが、全国の世論が東京都を支持したので政府は世論に屈服して、公害国会を開いて、公害14法を作りました。同じような先進的な条件が沖縄にはあります。辺野古地域は海も山も世界遺産になるような自然を持っています。沖縄こそ積極的に環境権を明示した条例をつくるべきだと思っています。

真栄里

お話をお伺いして大変勇気づけられます。沖縄は米軍の全面的な支配下にあって、自然環境、生活環境そして社会環境が破壊されてきました。

一つは、米軍政と基地による破壊です。あと60年かかるともいわれている不発弾の問題で、いまでも毎月1回不発弾の処理があります。また、米軍の射撃演習で銃弾が飛んできたり返還軍用地の有害物質や騒音公害、事件事故などが継続多発しています。戦争ですべてを破壊された旧村落はいち早く米軍基地に接収され、残っていた中部の北谷町の田園地帯や北部の山林が基地に接収され、陸も海も空も米軍訓練区域とされています。その結果、生活・産業用地の臨海地埋め立てが必要になり、自然環境が破壊されてきたのです。また、パイナップル栽培が推奨され赤土の流出も生み、沖縄の海はサンゴ礁に囲まれる豊かな生活資源で、魚もとれるし海藻もとれるし貝もとれます。これが赤土の流出や埋め立てなどでどんどん失われてきました。宮本先生がご指摘された石油コンビナート計画に対しては「金武湾を守る会」がつくられ、無自覚な行政への批判など画期的な環境運動が展開されました。

もう一つは、沖縄復帰事業としての急激な社会資本整備です。とくに海洋博を利用して「本土並み」を目標に道路整備をはじめ大規模な公共事業が行われました。沖縄の自然環境が無視され破壊されるという認識が広がり、県民の環境への反省や自覚も高まりました。

その後海洋博不況という混乱もあり、政府内でも島嶼圏の沖縄では、離島振興の生活レベルや過疎対策などで、離島の特性や環境を生かした離島振興策の議論があったようです。各離島に一つずつ国民宿舎をつくって、離島の自然に多くの人たちを呼び込むという理想が語られたことがあり、全国総合開発計画案のなかでも「沖縄は離島圏を利用して」という形で入っていて期待しましたが、結局なくなりました。

やられたのは相変わらずの開発型優先路線でした。わたしたち県民は「基地が沖縄の経済発展の機会を喪失させてきた」と主張し、軍用地を返還させて都市基盤を整備し、地域振興を図っていくことを要望しました。北谷や那覇の新都心軍用地跡地はその具体例ですね。ところが、政府はその後もこうした期待を逆手にとって基地再編交付金など「金と引き換え」という形で新基地建設を推進するありさまで、沖縄の発展可能性を阻害していく施策が現在まで続いているのは大変残念ですね。

しかし、いくら損なわれたといっても沖縄の自然回復力はまだあります。慶良間諸島が国立公園に指定されたように、南西諸島の魅力が世界的にも注目されています。いま、国は奄美や沖縄本島北部のユネスコ自然遺産登録を進めています。官邸は北部訓練場の一部返還を大宣伝しましたが、基地があり演習が行われるなかで動植物の貴重種が集積する島嶼性亜熱帯の自然環境が持続的に保全できるか、真剣に考えてほしいものです。辺野古新基地埋立で大浦湾の貴重なサンゴ破壊を強行しているカモフラージュではいけません。日本政府には、軍事優先で失われてきた沖縄の自然環境や生活環境の回復補償という政策的責務があります。日本政府は環境問題をもっと自覚すべきですし、そういう沖縄施策をいまこそ真剣にやるべきだと思います。

地方自治について

──

沖縄ではこの間、幾度の選挙でも明らかにされた新基地建設NO!の県民の声を国家権力が暴力的に弾圧し、新基地建設、ヘリパッド建設が進められています。加えてオスプレイ墜落事故や米軍兵士による犯罪も日米地位協定が壁となって日本政府が調査も捜査も裁判さえも行うことができません。日本国憲法は第8章で地方自治を明記していますが、政府は地方と国の関係を従属の枠組みでしか見ていません。憲法が明記している地方自治の意義についてお話しください。

宮本

地方自治制は近代国家にとっては不可欠の制度です。ヨーロッパでは都市を中心にして住民の自治を基盤にして団体自治=分権が成立してきたわけですが、日本の場合は明治政府が近代国家をつくるために地方自治をつくりました。ですから地方自治といっても団体自治で、住民の自治はないがしろにされてきたと思います。

戦後の新憲法は、戦前の憲法にはなかった地方自治を第8章に設けて、地方自治の本旨に基づいて地方の行財政体制をつくることが明記されました。これは憲法学者でもいろいろ論争はありますが、住民自治を土台にして団体自治が保障されなければならないという解釈で良いと思います。

しかし沖縄では1909年まで県議会がなくて、県知事は中央政府の指名で、地方自治制の完全施行は30年遅れの1920年でした。戦後は、米軍の支配下に入ったので自治権が保障されません。だから沖縄では自治権に対する熱烈な要求が軍政下でもずっとありました。

復帰して日本国憲法の下に入れば、沖縄も他の県と同じような自治が保障されなければならないわけですが、復帰後の沖縄に対しては、実際には中央政府が振興計画を立てて、公共事業を中心に本土と同じ基準で、100%近い補助金を出すという補助金行政になってしまったのではないでしょうか。財政は自治の基盤です。財政の自治権があって初めて沖縄県の自治が保障されるのです。その一番重要な制度を沖縄はずっと中央政府に握られています。とくに1996年の「沖縄に関する特別行動委員会」(SACO)での合意以降における米軍再編成の過程では、米軍再編交付金とともに振興計画自身がだんだん基地を温存するための政策のようになっています。財政の面からみると沖縄の自治権は大きく制約されていると思います。

2017年11月23日、設立総会
2017年11月23日、設立総会

沖縄の自治権の回復には、基地の縮小・廃止とともに、まずは中央政府の沖縄の基地に関連する特別措置を全部廃止してもらわなければならないと思います。わたしは、中央政府の基地関連の特別措置を全部やめてほしいと沖縄の人たちから主張してほしいと思います。基地を縮小・廃棄して沖縄の自律的な発展を考えるという場合にはその思い切りがどうしても必要で、仮にそれで補助金が減っても普通の府県がやっている事業と同じことができないわけではありません。近代国家としてやらなければならない業務は鳥取県であろうと高知県であろうと沖縄県であろうと変わりません。むしろ振興計画にすがりつくことによって沖縄の振興が阻害されてしまうような状況が最近目立ちます。仲井眞弘多前知事が辺野古を承認したのは明らかに政府の振興予算の圧力に屈服したと思われます。

2000年の改正地方自治法では、初めて国と自治体の役割分担が決められました。主として内政、住民福祉に関するものは自治体が責任を持ち、国は国際的な事務とナショナルミニマムなどを維持するという目的になっていました。安全保障は国の事務だといいますが、実際に戦争する行為なら国の責任かもしれませんが、基地を置く、とりわけ新しい立地をする場合には、自治体の同意が必要です。基地が立地すればその地域の生産、生活、環境、文化が全部変わります。しかも地位協定によって、基地は治外法権で自治権はなくなります。原発立地と一緒ですが、そういう施設を置く場合には国は当該自治体と十分な協議をして、地方団体の同意を得なければならない。そういう当たり前の論理を最高裁は辺野古訴訟で認めなかったのです。国の専権事務だといって一切の公共施設の立地についても自治権を否定するような判決が出たのは不法だと思います。沖縄への歴史的・構造的な差別をなくすチャンスが辺野古問題にはあります。わたしは、辺野古基地建設反対は沖縄の自治にとって歴史的意義のある闘争だと思います。

真栄里

沖縄は一貫して自治権を求めて運動を続けてきました。地方分権改革が進められていくなかで自治がもっと拡大していくだろうと期待しましたが、いまでは沖縄ではむしろ逆に作用しているという感じをもっています。辺野古訴訟での国地方係争処理委員会や高裁判決などは、基地を沖縄に集中することを反省もせず、立法司法行政の相互チェックもなく、日米安保体制という軍事同盟の負担・責任を沖縄に押し付け続けて当然という認識ですね。

沖縄では分権改革を要求して、沖縄振興計画もこれまで国が策定していたのを県がつくるように変えるところまではきました。ところが実際には沖縄振興予算を人質にして、振興事業をやりたければ基地を認めろという形で基地を押し付けてきます。沖縄の人たちが要求をすればするほど、国は自治を制約し、基地を押し付けてくる。いまでは反対する人の表現・集会の自由など人権まで制約し、差別意識まで露骨です。

沖縄の人たちが一番願っているのは、沖縄戦の悲劇は二度とあってはならない、アジアでも戦火を繰り返さないということです。その平和憲法に基づく要望さえも日本政府は押しつぶしてきて、最近は南西諸島防衛ということで、奄美大島、沖縄本島、宮古島、石垣島、与那国島まで自衛隊の配備強化をしています。離島振興、過疎対策などある種の利益誘導策として自衛隊を押し付けてくるのです。これは住民の自治権に対する国家権力による侵害です。選挙では、基地反対、縮小だと公約した仲井眞前知事や国会議員を官邸が押しつぶした姿を見ていると、沖縄の自治は国家権力によって圧殺されていると感じます。沖縄の人たちがいま一番要望しているのは住民自治を基本として施策をやってほしいということです。

憲法を沖縄に─9条改憲反対─

──

沖縄は、本土復帰後も憲法が及ばない地域であるかのように扱われています。日本政府のこうした姿勢を本土の人々も沖縄への無関心によって追認しているかのように見えます。沖縄に憲法を取り戻す展望を描けるでしょうか。

真栄里

1972年の復帰は、本土の人たちに憲法の初原の命を差し示してそれをよみがえらせるのだという決意がありました。ところが復帰してみると、本土の憲法意識は弱体化していて、沖縄はその矛盾を押し付けられるという構造的差別が復帰後四十数年間ずっと続いています。

沖縄は一貫して憲法の精神を生かした民主主義国家をつくり上げるという運動をしてきました。いまこそ憲法を生かしていく、もう一度憲法の命をよみがえらせていく運動をやるべきだと思います。沖縄からもそれを追求していきたいと思います。

宮本

いま安倍晋三首相は、憲法9条に新たに第3項をおく改憲の提案をしようとしています。しかし、いまの自衛隊は戦争しないものとして国民は認めているのだから、それ以上規定することは大変危険です。集団的自衛権を安保法制で認めたり、あるいは南西諸島に対して自衛隊の南西部隊をつくったり、明らかにアジアに対する積極的な軍事活動をめざすような状態になっています。憲法9条に第3項を新たにつくった場合にはこうしたことがもっと表面化すると思います。改憲を絶対に許してはなりません。

沖縄戦で大きな被害を受けた沖縄の人にとって平和は心からの願いであろうと思います。沖縄戦では日本軍は沖縄を守ってくれませんでした。戦争に対する痛烈な経験をして、9条こそ沖縄が求めた内容と一致するのではないかと思います。辺野古についてもおそらくあれは米軍の基地というだけではなく日本の基地にも安倍首相はしたいのだと思います。9条改憲反対が沖縄の今後を考える基本になるのではないでしょうか。

沖縄から発信する平和へのメッセージ

──

2017年は国連で核兵器禁止条約に加えて平和への権利宣言が採択された年でもあります。平和的生存権がようやく世界の舞台に出てきました。沖縄の地から平和へのメッセージをどのように発信すべきかお聞かせください。

真栄里

真栄里:沖縄は米軍統治下にあって、朝鮮戦争やベトナム戦争・アフガン戦争などあらゆる戦争を体験させられました。アメリカが行ったあらゆる戦争を見聞きしたわたしたち県民は、沖縄戦の体験を国際的にも生かすという視点で、大田昌秀元県知事は「平和の礎」をつくりました。沖縄が第2次世界大戦の最後の地上戦が行われた地で、「平和の礎」にはアメリカの兵士も日本の兵士も沖縄の住民、さらには徴兵徴用された韓国・朝鮮の方々も刻銘されています。

キーストーン・オブ・ザ・パシフィック(太平洋の要石)と呼ばれ、いくつもの紛争や戦争に巻き込まれるなかで、沖縄県民は国際的な視野を広げてきました。県民は沖縄がいつまでもアメリカの東アジアの軍事拠点、日米の軍事特区として新基地建設や軍事が強化されることは、世界やアジアの平和を考えたときに未来志向として間違っていると主張しています。あくまでも文化や経済交流、人間の交流、科学技術の交流が大事で、とくに環境問題では日本は先進国として支援・協力していくことが可能です。そういう地域として、沖縄をアジアの平和や環境の拠点とする展望をしっかりもって追求していきたいものです。

宮本

宮本:いまの提案に賛成です。ただ、北朝鮮の核開発や覇権主義的な傾向が見える中国の動向など、アジアの状況は平和だとはいえません。しかし、かつてのアメリカ対ソビエトの軍事的な冷戦のときと違うのは、力でもって互いに原爆をたくさんつくって均衡を保つということではなく、むしろ経済的な覇権をめぐる闘争の様相を呈しています。

こういう状況の下で日本は、アジアに平和と経済的な発展をもたらす、あるいは地球環境を守るため役割を果たしうる位置にいます。核に反対し、環境保全をして、経済発展をしようということで、アジアのなかで平和をつくり出す役割を果たすべき日本が、アメリカとくっついて北朝鮮と争おうという状況になっているのは大変遺憾なことです。

日本がこれからアジアで平和を作り出す場合に、アジアと正当な文化的・経済的交流をする基地として沖縄の位置を置いてもらい、アジアの平和と安全と経済交流の基地にするという沖縄の位置をはっきりさせることが必要になっています。

真栄里

真栄里:沖縄では、沖縄戦の体験を記録・保存する運動が、沖縄県史はじめ全市町村で行われ地域史として刊行されています。これらの記録は世界大戦の最後の地上戦の人類史的記録として、ユネスコの世界記憶遺産に登録することがふさわしいのではないかと思います。沖縄の米軍基地から本土空襲が行われていたこともあまり知られていませんし、また、長崎に原爆を投下した飛行機は、帰途沖縄の読谷村の米軍基地に降りています。広島の原爆よりも重く飛行機の燃料が不足したのでしょうが、沖縄基地の存在を考慮した投下計画だったのでしょう。こうした歴史を共有していくことも平和のメッセージでしょうね。

(対談実施日:2017年11月23日。於:ANAクラウンプラザホテル沖縄ハーバービュー)

真栄里 泰山
宮本 憲一