【インタビュー】地域の宝物を守り生かす条件 ―「由布院が好き」が人を育てる―


ゴルフ場建設計画と由布院のまちづくり

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由布院のまちづくりが本格的に始まったのは1970年代初頭だと思います。そのころ、溝口さんは旅館「玉の湯」の経営に参加されていて、持ち上がったゴルフ場建設計画に反対して「由布院の自然を守る会」をつくり、計画を止めましたね。

溝口

大分県別府市との境の猪の瀬戸というところでゴルフ場建設計画が持ち上がりました。普通、ゴルフ場は山のなかに造りますが、猪の瀬戸は原生植物や湿原植物が多い、大変すばらしい湿原でした。その当時は自然を守るよりは自然を壊してでも開発して地域振興を図ろうとする時代だったんです。

たまたまわたしは博物館にいて森林学者や植物学者と付き合いがあったので、自然環境の破壊に敏感になっていました。九州においては山岳地帯の木が切られるということで、原生林を守ろうという運動も起きていました。また臨海工業地帯が造られるころで、海を守ろうというグループの活動がさかんでした。なんとかすばらしい自然を守ろうということで、どうマスコミにアピールするかを考えました。著名人がこういうことに対してどう見ているか、外からの識者が由布院、猪の瀬戸をどうみているかということを100人の著名人にアンケートを送ったら、99%くらいが守るべきだと答えました。

由布院のなかではそんなところまでいっていなくて、自然を守っても飯は食えない、別府のように開発して施設を造るチャンスという風潮だったんですが、わたしたちは運動を働きかけて計画を止めさせました。その後いろいろな映画祭や音楽祭をやりましたが、マスコミの力を借りる、外の識者の視点を借りるということは一貫して続けています。

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由布院の自然を守る会の仲間づくりはどのようにすすめたのですか。

溝口

まず由布院温泉観光協会のなかに自然を守る会をつくりました。そのときの専務理事が中谷健太郎さんで、わたしが自然保護団体などをつないでいくということで会を立ち上げました。しかし自然を守るという大義名分はたつが、運動としては浸透しません。限られたグループだけで、他の人たちは冷ややかに見ている状況がありました。それで自然を守る会は1年で終えて、「明日の由布院を考える会」に変えて自然を守るグループ以外の人も入れました。その後、わたしが事務局長になって大変な苦労をすることになります。会合をもつたびに悪戦苦闘、反対派からたたかれました。たたかれた中身を生のままに収録して『花水樹』という「明日の由布院を考える会」の機関誌で全国にばらまくという手をうちました。賛成派、反対派の意見を実名で入れることで、自分の発言に責任をもたせることもできます。結果として広報宣伝をうまく活用できました。

身の丈に合ったまちづくり 出来事は心をただすチャンス

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日本列島改造論で日本中が開発と金儲けに沸き立っていっている時期だったと思います。しかし溝口さんたちはドイツを視察して本当の豊かさを問い直して、足元の資源が大切だということに思い至り、その後の由布院のまちづくりにつなげていったわけですね。

溝口

ヨーロッパに行っていろいろなものを見てきました。由布院は何か起きたときの節目節目に大きな出来事があり、そのたびに心をただす大きなチャンスとなっています。スムーズにいったのではなく、せっぱつまってそうなってきました。

映画館のないまちでの映画祭にしても、小さな星空コンサートも、原型は1971年にドイツに行って外国のまちをみて、その人たちがいかに豊かに過ごしているか、その豊かさは経済だけではないということをあちこちで見てきたことが生きています。日本ではまだ団体旅行が主流のときに、旅とはこういうものだということを気づかせてくれたのが一番の原点になっています。ヨーロッパには3人で100万円ずつ借金して行きました。

ヨーロッパで見た「豊かさ」を原点にして、身の丈に合ったまち、住んでいる人たちが住んで良かったと思えるまちにしていこうというのが由布院の第一の目標になりました。

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由布院の宝物をどう発見し、それをどう活用しようとしたんですか。

溝口

わたしは山が好きなので山の形を変えないように、自然をあまり開発していじりまわすということではなく、自然体のなかでいろいろなものが備わるようにしたいと思いました。それはヨーロッパの国々を見たことが原点だと思います。あのときは100万円のうち50万円は交通費で、お金がなくて一流のホテルには泊まれず、民泊のような、そこで住民が毎日生活をしているような宿に泊めてもらいました。住んでいる人たちの視点でものを見ることができたのが大きいですね。

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玉の湯の造形や庭のつくり方も自然体がキーワードになっているようですね。

溝口

ここはもともと全部田んぼで、5年に一度の大水害ですべて流されてしまうような大変苦労していた土地ですが、ホタルが乱舞する環境でもありました。温泉の地熱で、もともと木が育たない環境だったんです。河川改修のときに、わたしは500坪供出しましたが、OKをする条件に、この温泉の地熱を川に抜く工事をしてほしいと要望しました。工事の過程で地下の温水を川に排水できるようにしてもらいました。木は排水が良くなければ育たないことを知っていましたので、後ろの山の石を土地の下に入れました。もうひとつは、よそから木をもってきても由布院は寒冷地でどうしても生育がよくありません。そこで、この土地に生育した木を移して植えました。みなさんが家を建てるときに邪魔になった木をいただいて植えたのです。田んぼが森になって公園のようになりました。

人は自分の木に会いに来ます。みんなが玉の湯に対して気持ちが入ってくるようになります。なんでもないことをやっているけれど、みんなから見ると何か変に見えるけれど、だれもやらないことをやりました。人力車をやっている人には、こういうことを記した『由布院ものがたり』(中公文庫)を全員に渡して由布院の歴史を勉強してもらっています。彼らがお客さんに、口コミで広めてくれるからです。間違っていない由布院の歴史を伝えていく。それは中谷健太郎さんが得意とするところですが、健太郎さんのような思想家がいないと町は変な方向にいっていたと思います。健太郎さんはなんにもないところをここまでにする具体を描いていきました。彼なくしては由布院の観光は語れません。それから当時の湯布院町長、岩男頴一氏のバックアップも大きいですね。

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行政との関わりで大事なことはなんでしょう。

溝口

行政との信頼関係と行政のトップである町長のよさが問われます。トップになった人が、票がほしくて迎合するのか、そうではなくて信頼でやっているのかが大事です。議員の志も、まちに対する愛郷心をもっているかどうか。そして民衆が正しいものを見極める眼を持っているかどうか。単なる数の論理では平等が不平等になることがあると思います。それには、社会教育が重要だと思います。公民館活動、なにより人材育成が重要だと思いました。その時代は公民館に行けば産業からなにからなにまで全部分かるという時代でした。

文人墨客の訪れる宿で知られる由布院玉の湯。文藝春秋の社長を務めた上林吾郎氏のご縁で小林秀雄、今日出海、那須良輔氏などの常宿となる。手にしているのは、1979年4月6日小林秀雄邸にて那須良輔氏が描いた紅しだれ桜。同じ桜を小林氏から長女和泉の結婚のお祝いにいただいた(溝口薫平さん談)。その桜の前で溝口薫平(右)、岡田知弘(左)。
文人墨客の訪れる宿で知られる由布院玉の湯。文藝春秋の社長を務めた上林吾郎氏のご縁で小林秀雄、今日出海、那須良輔氏などの常宿となる。手にしているのは、1979年4月6日小林秀雄邸にて那須良輔氏が描いた紅しだれ桜。同じ桜を小林氏から長女和泉の結婚のお祝いにいただいた(溝口薫平さん談)。その桜の前で溝口薫平(右)、岡田知弘(左)。

旅は安全が重要、継承はまちを好きな人が ─由布院を好きな人は身が入る─

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由布院に限らず温泉は火山の近くにあり、火山活動も活発です。自然との付き合い方を先人たちも苦労してきたと思います。自然との上手な付き合いかたを考えるときに何が重要でしょうか。

溝口

旅は安全が重要です。安全な食を供給できるということも大事だと思います。由布院は何もなかったときに、農家が土地の産物として伝統的なものから安全なものをどう継承していくかということをずいぶん早くから手掛けてきました。由布院は地元食材をおいしく提供しているところをお互いに見せ合って技術を高めていくことをやっています。

昔の職人はいなくなりましたが、新しい職人が旅館や地域で活躍しています。民間ががんばっているなかで、行政がそれをバックアップする仕組みをつくらないと定住が進まなくなります。

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若い世代に事業継承し、世代を超えてまちづくりや経営をつないでいくときに大事にしていることや期待していることをお話しください。

溝口

由布院が好きだいうことが大事です。好きな人が責任あるポストにつくと身が入ります。若いほど視野を広げることができると思います。若いときだとこっちもサポートできる。若い人たちは信念をもって一つのことに取り組めばよいと思います。失敗したらだめだというのではなく、見守るという距離感をもって接したいと思っています。

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本日は、ありがとうございました。

2018年4月6日『住民と自治』編集部

溝口 薫平

大分県九重町1933年生まれ。1966年、妻の実家玉の湯の経営に参加。1970年、ゴルフ場建設計画に反対して「由布院の自然を守る会」を結成。2002年に国土交通省認定「観光カリスマ」。公益財団法人人財育成ゆふいん財団理事長、豊かな水環境創出ゆふいん会議会長。