1960年代の由布院──自慢の種がない
- ──
-
中谷さんが、「亀の井別荘」に入ったのは1962年ですね。そのころの由布院の様子からお聞きかせください。
- 中谷
-
ちょうど九州横断道路があと1、2年で通るというときで(開通1964年)、期待を上回るくらいに朝から晩まで車が走っていました。しかしここにたどりつくのは轟音だけで、車は素通りでした(笑)。一方、そのころの農村は、軍隊から帰ってきた人たちが同窓のよしみで議員になったり消防団の幹部になったりしていました。自分たちは戦ったぞという気持ちのつながりは強かったというのが村の風景です。
- ──
-
そのころの旅館経営はどのようでしたか。
- 中谷
-
我が家は客室が5、6室しかなかったし、当然社員もほとんど雇えない、板場もない、部屋係もない。家業としてやるという状況でした。犬養毅首相が五・一五事件で撃たれる前の年にうちに泊まられたという話があるくらいでこれといった自慢の種がない。九州横断道路が通って車はどっと入り込んできたけどお客さんは盆地に入ってこない。
由布院を知ってもらうには、農村を自慢するしかないことが、しだいにわかってきました。豆腐屋を自慢し、川魚屋を自慢するしかない。
自慢がないということは、いま思えばなかなかよい出発だったと思います。あのころ、自慢がたくさんあった隣の別府温泉は、ブレーキの利きが悪かったと思います。溝口薫平さんたちとオートバイで九州中をPRしてまわったときも、「ススキがきれいです」と自慢して、旅行代理店に笑われました(笑)。
自慢するものがないというのが、生活観光地、「住んでよし、訪ねてよし」という惹句を生んでくれたと思います。
- ──
-
ゴルフ場建設の話が持ち上がって由布院温泉観光協会のなかに「由布院の自然を守る会」(後の「明日の由布院を考える会」)をつくって反対運動を広げたころから自然環境を生かした観光の地域づくりがはじまったということでしょうか。
- 中谷
-
自然の風景は自慢できます。1970年に、別府市との境界で湯布院町の玄関先にあたる猪の背戸というところにゴルフ場建設の計画が持ち上がりました。われらが桃源郷・由布院が外資に攻め込まれたような感覚を覚えました。当時、わたしは30代後半で、由布院温泉観光協会の専務理事を務めておりました。協会長は会を牛耳ったりする人ではなかったので、専務理事のやりたいようにやらせてくれました。由布院を知っている著名人100人からアンケートをもらったり、反対運動を進めたりしてゴルフ場建設計画を阻止することができました。
- ──
-
中谷さんより上の世代は高度成長期前のさびしい由布院温泉の状況も知っているので、いろいろな意見が出たのではないですか。
- 中谷
-
「明日の由布院を考える会」の機関誌『花水樹』では、だれがどういう発言をしたかを逐一記事にしました。屁理屈をいっても通らないという経験をしました。前の職場の撮影所も絵に描いたように理屈の通らない世界でした。黙って右の足を前に出せ、そして左の足を前に出せ、身体が自然に前に出る(笑)。
私費で滞在型観光のドイツを学びに行く
- ──
-
1971年に溝口さんたちといっしょに私費でドイツの滞在型観光を学びに行かれましたね。そのときの思いはどんなものでしたか。
- 中谷
-
夢がほしかったのだと思います。バスが町に入らない観光地は当時考えられなかった。滞在型のドイツがすばらしいという話を聞いていた母親がお金がないけど押し出してくれました。45日間、西ドイツなどヨーロッパの保養温泉地を周りました。
- ──
-
ドイツでの学びはいかがでしたか。
- 中谷
-
市長や議員、宿屋のおやじや大学の先生が議論を積み重ねていました。シュツットガルト工科大学では、10年計画の建物をつくるのに7年かけて議論していました。あーだ、こーだとやるのがよいのだと知りました。ドイツはそれをずっと続けていますが、日本はそうではない。
- ──
-
ドイツでは、行政も大学も含めて地域づくりを共同でやっていたわけですね。
- 中谷
-
はい、ドイツから帰ってから、町行政といっしょに町の内外の人や技術をひっぱってきていろいろな催し物をやりました。そのなかから生まれたのが映画祭や音楽祭、辻馬車運行です。
大分県中部地震被害を逆手に発信型イベントを実施
- ──
-
1975年4月21日の大分県中部地震でかなり被害がでました。その復興過程で新たなまちづくりが始まりますね。
- 中谷
-
あのころは内輪で力んでいたわりには由布院が何者かということは、はっきりしていなかったのです。別府が花形で、由布院はいつか消えると思われていました。そこに地震がきた。地震の後、「由布院は健在です」という情報を出そうとしましたが、そもそも「健在な由布院」の姿が見えないのです。
地震はそれを考えるきっかけになりました。とにかく何かやらないといけない、だけど何をやるかがわからない。町議会が「お金をだしてもよい、何をアピールするか」といってくれたけど、答えられませんでした。
由布院には、こんな楽しいことがあるということを全国に発信しないとだれも来ない。大慌てで東京の企画仲間を4、5人よこしてくれと知り合いに頼んで、この「庄屋サロン」に缶詰めにしたんです。
「滞在」がそのときのキーワードでした。食事は提供できないが部屋は提供できる、夕食は無理だが朝食はできる、お泊まりは無理だけれど、休憩はできる、などできることを目いっぱい挙げてもらいました。
辻馬車も始めました。初めはお客さんを乗せたまま田んぼにつっこんだり、途中で動かなくなったりなど大変でした。そんなことがよいとはいえませんが、むちゃくちゃなエネルギーが奔流して、計画が一気に具体化したのはよかったと思います。地震から2カ月くらいで辻馬車を走らせましたし、7月には音楽祭をやりました。わたしは博多に泊まり込んでマスコミ対応に没頭です。原野を守るために牛を飼う、都会に住む人に一口20万円で牛のオーナーになっていただく、その代わりに由布院の特産物を毎年贈るというアイデアで募集しましたら、100人を超えるオーナーが集まりました。1975年からは牛のオーナーと畜産農家の交流の場として「牛喰い絶叫大会」を始めました。いま思えば、地震にお尻をかまれて待ったなしの企画だったんです。
- ──
-
ドイツの経験が、由布院流の泊食分離やベッド・アンド・ブレックファスト(B&B)方式(宿泊と朝食を提供して低価格で利用できる)につながっているのでしょうか。
- 中谷
-
つながっています。あのころは1泊2食以外の観光客はほとんどなかったので、泊食分離やB&B方式を立ち上げれば由布院も注目されるのではと思ったんです。「映画館がない町に映画がある」をキャッチコピーにして映画祭をやり、4泊程度泊まってもらうことをねらいました。
最近急増している外国の人は、板場の料理を2食たべて1泊で帰るということはお気に召さないようで、スーパーで好きなものを買って、旅館やあちらこちらで食べるやり方を好まれます。由布院にはいま1泊5000円から5万円までの宿がありますが、調理場から独立した料理人が経営している飲食店が増えています。旅館が「1泊2食」という仕組みから抜け出すチャンスだと思います。
旅館は触媒 ─迎える人・迎えられる人があっての「旅」─
- ──
-
中谷さんはよく「旅館は触媒だ」とおっしゃっていますね。
- 中谷
-
観光は「出会い」、旅館は「触媒」と思っています。最近の民泊のように迎える人がいなくて客人だけが通り過ぎてゆく現象は、旅ではないのではないか?
韓国、台湾、中国などから大勢の方がおいでになります。情報が空中を飛んで遠隔地を結んでいますが、「出会いの場」の意味がほとんどなくなっている。
ツーリストインフォメーションセンターが由布院駅のとなりにできましたが、そこが「情報だけのセンター」にならないように願っています。情報だけの観光は根っこのない植木鉢です。
根っこのあるものにするにはどうすればよいか。たとえば、日本には紀行文があります。JTBががんばって『旅』誌を通して紀行文をつないでくれましたが、「紀行文学」は「地域文化の発掘記録」でもあります。由布市が紀行文学の賞をつくって懸賞し、世界中の紀行文学をあそこの2階の図書架に並べる。もうひとつは、「建築文化図書」の蒐集開架です。幸い由布院には磯崎新、原広司、隈研吾、坂茂、他話題を呼ぶ作家の作品があり、九州一円にも多くの話題作が散らばっています。それらを列車で結んで「地域の景観文化」を考えるというのは如何?
- ──
-
面白いですね。また夢が広がりました。
2018年4月6日『住民と自治』編集部