【論文】全国一の開拓民を送り出した長野県 満蒙開拓平和記念館―戦争と自治体―

  • 林 茂伸(はやし しげのぶ)
    満蒙開拓平和記念館ボランティアガイド

2018年8月9日

月刊『住民と自治』 2018年8月号 より


日本にとっては不都合であろうことも、それを隠して真実は見えない。これが満蒙開拓平和記念館のメッセージです。「歴史を学ぶのは未来においてわれわれのすべきことを考えるため」といわれます。

2013年4月、関係者の8年越しの念願がかない、日本で唯一の「満蒙開拓」に特化した記念館が、長野県阿智村に開館しました。

中国東北部に13年間だけあった「満州国」と「満蒙開拓」という国策をテーマとして、来館者はそう多くないと予想されましたが、連日多くの人が訪れています。小・中・高の修学旅行などで平和学習として定例的に訪問する学校もあります。

敷地は阿智村が無償提供(約1500平方㍍)、建物は運営する法人で建設し、民設民営です。5年間で約14万人の入館を記録しました。

村に残る戦時中の行政資料はどれも貴重で、村から記念館にいくつも資料を貸与しています。たとえば、国・長野県から村役場に送られてきた1937(昭和12)年から1945(昭和20)年の戦時中ポスター、戦後満州に残らざるを得なかった中国残留孤児を日本に帰す運動に身をささげた山本慈昭氏に関する資料、残留孤児の手紙、満州での開拓民の暮らしの写真などです。

記念館設立の背景と歩み・理念
─加害と被害の両面を展示解説─

2006年、飯田日中友好協会のなかに満蒙開拓平和記念館建設準備委員会が発足、ほぼ月1回の委員会で協議が積み重ねられました。多くの犠牲者を出した満蒙開拓のことを知ろうとしても、全国どこにもその施設がないことが設立の理由です。とくに開拓団が多い長野県飯田・下伊那地域のどこかに設立したいという思いが高まりました。用地が決まらず計画実施が難航しましたが、阿智村で土地が提供でき、計画が具体化しました。

1932年から1945年まで、農村部や都市部の別なく日本すべての都道府県から、農業開拓移民が中国東北部(満州)へ送り出されました。昭和の大恐慌対策と過剰人口の口減らしが背景にあったとされましたが、実は軍事上の必要性がおもな理由でした。「満蒙は日本の生命線」といわれ、日露戦争で獲得した権益を守る一翼のため渡満した開拓民は27万人余り(注:表の説明書き参照)でした。うち長野県は3万3000人という全国一の多さで、さらにその4分の1の8400人が飯田・下伊那郡からです。この地域から長野県の4分の1以上の渡満者が出ているのは特筆に値することです。

表 開拓団および義勇隊送出状況
表 開拓団および義勇隊送出状況
『長野県満州開拓史 総編』(長野県開拓自興会満州開拓史刊行会編・1984年発行)から満蒙開拓平和記念館作成。
出典元は『満洲開拓史』(満洲開拓史刊行会編・1966年発行)。
計画数も入っており必ずしも正確な数字ではない。
現在では満蒙開拓団の総人員数は約27万人と言われている。

郡の渡満者の半分が戦闘や栄養失調や病気などで死亡したり行方不明になったりし、帰国できませんでした。中国残留孤児・残留婦人という悲劇を生み出し、現代にも続く悲しく重たいテーマです。なぜ飯田・下伊那からの渡満者がこんなに多いのか素朴な疑問ですが、満蒙開拓に理解を示すリーダー層が多かったからといわれています。

当時開拓民以外にも約130万の日本人が渡満していたために、自分のルーツを求めて来館する関係者も多くいます。また初めて満蒙開拓という事実を知る人も多く、資料が十分とはいえない展示ではありますが、事の起こりからじっくり見る人が多くいます。昭和の大不況の克服手段を海外占領に求め、軍事的要求を満たしかつ実質棄民政策を行った背景を考えることは実に重たく、日本の暗部と負の遺産を見渡すことでもあります。

この事実を後世に伝え、なぜ満蒙開拓が始まったか、なぜ戦争が始まったか、当時を見つめ体験者の話に寄り添い、戦争と平和を自分の頭で考えようとしているのが当記念館です。日本にとっては負の遺産というべき事実を紹介し、最後にこの負の遺産を、正の財産に変える知恵を持つことを呼び掛けています。

満蒙開拓の実態
─日本に不都合な事でもある加害

と被害─

明治後半から高い繭価の養蚕業に沸いていた農村部は、1929年に始まる世界恐慌のなか、繭価の5分の1への暴落と米価の安値に直面し、長野県の多くの農家もより生活が苦しくなりました。失業率は高く、若者は就業できず、学校に弁当を持っていけない欠食児童がたくさんいました。行政も税収が上がらず、借金の累積が大きな課題でした。「貧乏子沢山」の言葉のとおり、きょうだいが6~8人が当たり前の時代で、長男は家を継ぐので貧乏ながら家も土地もありましたが、次男や三男は行くところがない時代でした。農村経済が混乱するなか、「五反百姓」といわれる狭い耕地と過剰人口を抱えていた各村では、「経済更生計画」が作られ、そのなかに満蒙開拓が入れられました。

満州へ行けば20町歩の地主になれるという触れ込みで、各町村に目標が割り当てられ、更生計画の国補助金確保のためにも、町村の理事者は住民の説得に躍起になり、阿智村でも1933年から試験移民として開拓団員が入植し始めます。10代半ばで渡満する「満蒙開拓青少年義勇軍」も、市町村・学校が強力な進路指導で送り出しました。村民の2割近くが行った村もあり、「バスに乗り遅れるな」と一つのブームでした。

満州の地は無住の地ばかりではなく、先住の人が土地を耕していたところを安く買い上げるなどして、すでに家も畑もあった開拓地が多くあり、追い出された中国人を労務者・小作人として使っていました。当然憎悪を生み、敗戦時その悪い感情は開拓民に向けられ多くの犠牲者を生むことになります。

ソ連の防御線を兼ねて満州北部が日本の入植地として多く割り当てられました。満州国中南部の盾となる地に開拓団の多くが割り当てられたのです。

1945年8月9日ソ連が突如対日参戦し、非戦闘員の開拓団の混乱、逃避行が始まりました。その悲惨さは筆舌に尽くしがたいものでした。この時、18歳から45歳までの男4万7000人が根こそぎ動員で軍に徴兵され、開拓団に残った22万人余りは女性と子ども、年寄りで、突然の戦闘に遭遇し多くの人が命を落としました。集団自決が多くあるなか、中国人に預けられたり、売られたりした孤児は数千人に上り、生きるために中国人と結婚する若い女性も多かったのです。そのなかで無事に帰ってきたのは長野県内で約1万7000人、中国に残留した孤児・婦人は約1100人となり、今日まで尾を引く残留孤児の問題の発端となりました。1万6000人が帰って来られないという県最大の戦争被害はあまり語られることがなく戦後が過ぎていきました。残留孤児のほとんどは開拓団の子弟であり、他の日本人と違うことも特色です。

長野県最後の開拓団は阿智村の阿智郷開拓団で、1945年5月に渡満、3カ月でソ連が攻めてきて7割が亡くなる悲劇が起きます。

敗戦後、満州国は消滅し、在留邦人はそのまま現地にとどまることとされました。ソ連兵と中国人の間で敵国人として打ち捨てられ、他に助けを求められない開拓団は、食糧、衣類などもなく8万人が死亡または行方不明となります。

土地を奪う侵略の手先となった開拓団は、その付けを一身に背負い多数が亡くなる被害者となります。わたしは加害と被害の両面があることを必ず話すようにしています。日本にとっては不都合であろうことも、それを隠して真実は見えないことが当館のメッセージです。

負の遺産を正の財産に置き換える知恵を
─高い意識・倫理、未来への洞察─

当記念館は事実起こった一般国民の悲劇に、まともに向きあい事実に迫ろうという点で今日貴重です。この「負の遺産を正の財産にする智恵を求める」開館の志の高さが、多くの人に受け入れられています。重たくむごい負の遺産を理解するには、歴史と背景を説明することが必要です。

一方でまた、体験者にはその人しか知らない記憶を残すようにお願いしています。後に続く人に分かるように映像や録音、手記など何でも良いので残すことを依頼するばかりです。あなたが居なくなればもうその貴重な体験は途絶えます。いまのわたしたちや将来の小学生に残してほしいと訴えています。住民の疑いない体験こそ将来に継承すべき遺産です。

戦後70年、戦争の記憶がはるか昔のものとなるなかで、このような問い掛けが必要と考える当館がいまこそ存在意義を持ちます。そして、島国日本の考えでなく、最低東アジアの範囲で物事を考えなくてはならないことを、外交史は示しています。

「国策で仕方がなかったのよ」、「皆がやるもんでダメとはいえなかった」、「そういう教育だった」「国のため死ぬのが当たり前だった」。入館者からはこれらの重たい言葉が端々に出てきます。なかには、「日本の中国でやったことは侵略でない」、「中国には侵略だがフィリピンなどは日本が独立を助けた」「朝鮮は日本が治めてよかった」「もっとソ連や中国の蛮行をいう必要がある」という声も聞こえます。侵略した国としてこれらをどう評価するか、今日国民の歴史認識とともに大きな課題です。

日本の国は、この大きな不始末を一回も総括していません。国民はそれを自分のものとして総括する責任があります。日本人は国家に対する徹底した合理的批判精神を欠きがちです。歴史を振り返らない国に未来はなく、過去の負の遺産を見つめない国民に将来はないと思います。

行政職員にもっと学んでほしい

満蒙開拓について多くの行政職員はあまり知りません。職員も忙しいと思いますが、せめて一時間、行政研修として取り組むことが必要です。満州に阿智村からたくさんの人が行きました。清内路村(現阿智村)では五人に一人が行きました。なぜそんなことになったのでしょうか。村づくりは、地に足のついたことをやらなければなりません。国の間違った政策に巻き込まれると、何が起きるのかを学ぶことは大事だと思います。満州に1000人行って半分が帰って来ることができませんでした。なんでそんなに死んだのか、それを考えるだけでいい。いまでも「満州」という国策を形を変えて引きずっているのかもしれないのです。権力の一角にいる自分ならその時どうしたか想像をめぐらし、その政策に向き合ってみる事です。

とくに長野県の中学生、高校生に来てほしいです。県外から定期的にくる学校は決まっています。それと労働組合単位でもっと来てほしいです。「歴史を学ぶのは未来においてわれわれのすべきことを考えるため」といわれます。前のめりになって課題になだれ込む日本人ではなく、後ろを振り返り、かつ未来に向け方向を考えるために、われわれが考えたい言葉です。そこにやっと到達したのです。

住民に責任を持って政策に向き合い、命と暮らしを守る職員、という職員本来の役割を学べる点で本館は貴重です。

2018年8月9日

月刊『住民と自治』 2018年8月号 より

  • 林 茂伸
    林 茂伸(はやし しげのぶ)
    満蒙開拓平和記念館ボランティアガイド

    阿智村教育委員会次長・参事、同村協働活動推進課長を経て、現在満蒙開拓平和記念館ボランティアガイド。

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