【論文】市民に寄り添う、伴走型の災害対応 2018年7月豪雨 岡山県総社市のとりくみ


被災者宅を各戸訪問、どの災害対応マニュアルにも無い項目。被災者に寄り添い市役所がより近い存在となること、これが心の支えになり、後の復興に大きく寄与します。

寄り添う災害対応のスタート

「2回目の爆発の危険がある。下原地区の全住民を、公用バスと公用車で避難させなさい」。市長から指示がでたのは2018年7月7日に日付が替わる頃でした。指示を受け総社市下原地区に到着し、目の当たりにしたのは、瓦が吹き飛び、窓ガラスは砕け、一部の家屋に火災が発生している悲惨な光景。「下原地区が大変なことになっています。」と即座に災害対策本部に連絡しました。

総社市の紹介と被害状況

総社市は、岡山県の南西部に位置する人口約6万9000人のまち。特徴的な政策として、障がいのある方の就労支援「障がい者1500人雇用事業」、多文化共生事業、ひきこもり支援、性的マイノリィティ支援など福祉施策を中心に、だれもが活躍できるまちを目指しています。そのおかげか現在も人口は微増傾向にあります。また、災害に関して、地震リスクは少ないものの、市内を縦断する1級河川高梁川とその支流に起因する水害は従来から心配されていました。

2018年7月豪雨では、関連死を含め10名の犠牲者、1847棟に被害が発生し、特に大きな被害が発生したのが昭和地区と下原地区でした。昭和地区では堤防決壊により1名の命が奪われ、約360の住家が半壊以上の被害を受けました。下原地区では7月6日午後11時35分にアルミ工場で水蒸気爆発が発生し、同地区の115世帯全てに爆風被害、翌日に小田川の決壊による水害という二重被害が発生しました。

被災者との距離を縮めるために

災害対応にあたり私たちが意識したのは「寄り添う」という気持ち。市長からも何度もこの気持ちで対応しなさいと指示を受けました。

災害発生から5日後の7月11日、「甚大な被害を受けた昭和地区と下原地区に災害対策本部の現地出張所(以下、出張所)を7月13日に設置する」との市長の指示を受け、それぞれに3名の職員が配置されました(図1)。私は下原地区の担当に選ばれました。理由は、下原・砂古自主防災組織を立ち上げるとき防災担当として関わり顔見知りが多かったためで、災害対策本部の担当事務や組織上の理由での人選ではありませんでした。着任してすぐに自主防災組織と連携し復旧作業に着手。しかし、翌日に市長から出た指示はまるで違いました。「被災者のお宅を1軒ずつ訪問し、ニーズを聴きなさい」。今だから言えますが、復旧作業が最優先の中でのこの指示は正直きつかったです。しかし、10分でもいいから時間をつくり手分けして訪問しようと、配置された職員同士で決めました。

図1 現地出張所の活動
図1 現地出張所の活動

「お困りのことはありませんか。」、「ボランティアは足りていますか。」、1軒ずつ門戸を叩きました。また、「こんにちは」「暑いので気を付けてください。」と見かける方には積極的に声をかけました。当然、不平、不満の厳しい声もありましたが、丁寧に対応しました。

このとき意識したことは、被災者の顔と名前を憶えること、個々の被害状況を把握すること、そして私たちの顔と名前を憶えてもらうことでした。結果、7月の終わりごろには、市職員と被災者という関係から、市職員○○さんと被災者○○さんというより近い関係になっていました。また、驚くことに下原地区の方以上に地域のことに詳しく、親密になった職員もいました。後に、爆発事故の補償に関する深刻な相談、家屋の修繕、みなし仮設、農機具補助など様々な相談に、本音に近いコミュニケーションがとれたことは互いに大きくプラスに働きました。

11月末に出張所を閉じる際に、被災者の方から「困ったことがあれば出張所で気軽に相談できたのは大きな支えでした。」と聞いたとき、被災者との距離を縮めることの大切さと、出張所の意義を改めて痛感しました。下原地区の方からは今でも相談の連絡が届き、昔からの知り合いのように接していただいています。

下原・砂古自主防災組織の紹介

下原・砂古自主防災組織の結成のきっかけは2011年の東日本大震災で、私は防災担当として当時関わっていました。「行政に頼らない組織を作りたい」、また「3年計画で活動を定着させるので、その観点からアドバイスがほしい」。とにかく前向きな地区で、お互いに競争しながら勉強していたことを憶えています。

そのなかで、防災訓練は災害想定を毎年変えて実施すること、子どもも楽しめるメニューを取り入れること、いつかは夜間の避難訓練を実施しましょう、などと話し合っていました。毎年避難訓練を実施し、独自の要支援者台帳を整備し、安否確認の徹底など着実に活動し、ついに2016年8月27日に夜間の避難訓練が実施されました。そして、2018年豪雨の際には、甚大な被害が発生しながら数名の負傷者だったことは、これまでの準備の賜物であり奇跡といっても過言ではないと思います。

時間感覚の違いを感じとる

「災害時は法律を破れ」。これは市長の言葉です。さすがに法律を無視するわけにはいかないので、可能な限りルールの基準を下げ、どうすればできるかを前提に寄り添えという意味だと捉えて、被災者に接してきました。「何故できないのか。」、「いつになったら判断できるのか。」、時には、対策本部に対し苛立ちを隠せず、職員という立場を忘れ、被災者の声を代弁したこともありました。

私が痛感したことは、被災者と対策本部の時間感覚の違いです。「即断即決」。現地では、これが原則でした。被災者にとって、半日待たされることは諦めることに等しいのです。前述の市長の言葉は、このような意味も含めた職員へのメッセージと思っています。また、「現場の判断にまかせる。」、「災害時だから予算を使え。」、これらも市長の当時の言葉で、現地対応している私たちの背中を押してくれるものでした。ただし、その言葉を額面どおりには受け取らず、一定の自己ルールを設け対応していました。

また、言われるがまま全ての要望を受けとめていた訳ではありません。本当に被災者のためになるのか、他の被災者や被災地への影響度合はどうか、バランス感覚を持ち迅速に判断しました。逆に、難しい案件は時間を要することの了解を得て、出張所の職員同士で相談し、自治会役員に意見を伺うことも忘れず、あえて慎重に対応したこともありました。

被災地支援の経験を活かす

「支援力=受援力」、被災地を支援することは、逆の立場になったとき必ず活きます。この理念で約9年前に東日本大震災の支援活動を行い、後に提言集「総社レポート」を作成しました。また、2013年には全国でも珍しい「大規模被災地支援条例」を制定しました。2016年の熊本地震では登山家の野口健さんとテント村を開設し、1カ月半の支援活動も実施しました。

下原、昭和の両出張所に配置された職員(後にそれぞれ1名増員され、各4名体制になる)は、偶然にも東日本大震災や熊本地震など被災地支援を経験した職員でした。そのため、同じ意識で対応できたことはとても心強かったです。今回の災害対応では、これまでの被災地支援の経験が活かされていると感じました。被災者の対応、支援団体との連携、支援物資の手配、復旧作業の段取りなど、間違いなくプラスに働きました(図2)。

図2 総社市の災害対応〈行政、社協、民間(NPO)など多様な者と連携〉
図2 総社市の災害対応〈行政、社協、民間(NPO)など多様な者と連携〉

結びに

避難所から仮設住宅に移動される高齢の被災者の方に「避難所では御不便をかけました。」と声をかけると意外な言葉が返ってきました。「楽しかったよ。ありがとう」。聞けば、総社市職員だけでなく、応援自治体の職員やボランティアなど、皆が優しく声をかけてくれたとのことでした。寄り添うという気持ちが少しでも通じたのかもしれません。

末筆ではございますが、災害発生直後から全国の皆様に多大なる御支援を賜りましたことに感謝申し上げます。着実に前に進んでいること、一日も早い復興に向け取り組んでいることをこの場を借りて報告いたします。

新谷 秀樹

2018年4月から現職。西日本豪雨災害の際は、急きょ設置された災害対策本部下原出張所の一人として支援活動にあたる。