【論文】公害経験の継承を通じた協働のまちづくり ─ 維持可能な内発的発展に向けて─


公害の経験・教訓を未来へつなぐ

2022年7月、日本の環境政策を進める原動力の一つとなった四日市公害訴訟判決から50年を迎えました。 から半世紀を経る中で、「公害経験の継承」という課題が注目されています(特集「公害資料館の現代的意義と課題」『環境と公害』第50巻第3号、2021年、本特集の清水万由子論文参照)。

四日市でも、四日市再生「公害市民塾」というグループが、25年間にわたり公害経験の継承に取り組んできました。

公害の被害者は今も救済を求めて運動を続けていますし、福島原発事故のように新たな公害も起きているわけですから、決して「公害は終わっていない」というべきです(宮本憲一『戦後日本公害史論』岩波書店、2014年)。他方で、数々の裁判の和解や環境対策などが積み重ねられ、公害事件は一定の「解決」をみており、そこに至る「歴史」がつくられてきたのも事実です。

四大公害事件をはじめ深刻な公害を経験してきた地域では、その歴史や教訓を伝えるために、国・自治体や民間組織による資料室・展示施設が多数設けられており、公害資料館ネットワークのような連携組織もできています。しかし、歴史をどう解釈し意味付与をするかという点で、多くの犠牲をともなう公害事件は、戦争、自然災害、大事故などと同様に難しさを抱えています。解釈の視点が立場によって異なり、それらの間の分断や対立が生じることがあるからです。このように解釈が分裂しやすい「過去」は「困難な過去」(difficult past)と呼ばれています(Cauvin, T., Public History: A Textbook of Practice, Routledge, 2016)。

「困難な過去」は今も地域に影を落としています。四日市公害訴訟の判決が出された後、他の地域でも大気汚染公害の被害者が集団訴訟を提起しました(表参照)。

表 四日市訴訟後における各地の大気汚染訴訟

 

それらが1990年代に和解解決を迎えるとともに、各地で「環境再生のまちづくり」がスタートしました。司法上の紛争が終結したことで、被告企業、公害患者、自治体など様々な関係主体が協働し、地域発展をめざすという方向転換が期待されたのです。

しかし「困難な過去」を抱えた地域で、立場の違いを越えて協働を強めることはそれほど簡単ではありません。公害経験の継承は、やり方を間違えると協働を阻害する恐れもあります。地域の分断を修復し、協働へと向かうにはどうすればよいか、本稿では筆者の関わってきた事例も踏まえながら、その道筋を考えたいと思います。

維持可能な内発的発展

大阪市西淀川区や岡山県倉敷市水島地区など、戦後の高度経済成長期に深刻な大気汚染公害の被害を受け、被害者が集団訴訟を提起した地域では、前述の通り1990年代に訴訟が和解解決を迎えるとともに「環境再生のまちづくり」がスタートしました。「環境再生のまちづくり」とは、主に都市地域で、住民など地元主体が中心となって公害・環境問題の解決を図り、破壊された地域環境・地域社会を再生し、維持可能な地域をめざすことを意味します(除本理史・林美帆編著『西淀川公害の40年─維持可能な環境都市をめざして』ミネルヴァ書房、2013年)。これは公害被害地域において、宮本憲一が提唱した「維持可能(サステイナブル)な内発的発展」をめざす取り組みだといえます。

宮本が1980年代に提唱した内発的発展論は、戦後日本の地域開発に対する反省、とくに深刻な公害問題の発生を背景としたものです。宮本は、内発的発展の「目的」「方法」「主体」を次のようにまとめています(前掲『戦後日本公害史論』739─741ページ)。

①(目的)「環境保全の枠の中で経済開発を考え、安全で、雇用が安定し、自然や美しい街並みを保全し、住み心地よき都市(アメニテ

ィのある街)をつくり、福祉や学術・教育・文化の向上をはかる。なによりも地元住民の人権の確立が求められる」。これは、経済成長を目的とするのではなく、総合的に「生活の質」の向上をめざすことを意味しています。

②(方法)「地域内の資源、技術、伝統文化をできるだけ活かして、地域内市場を拡大し、産業開発を特定業種に限定せず、複雑な産業構成をつくり、あらゆる段階で付加価値をつけて、それを地元に還元できるような地域内あるいは広域の産業連関を図る」。これによって生じる社会的剰余は地域内で再投資していくことが大事です。

③(主体)「内発的発展の主体は地域の企業、協同組合のなどの産業組織、NPOなどの社会的企業、住民そして自治体である」。とくに「自治体と民間組織が協力するガバナンス」が重要です。

内発的発展は、ただちに環境的に維持可能なわけではありません。内発的発展も環境破壊的になりうるため、意識的に維持可能性を追求しなくてはなりません。つまり「維持可能な内発的発展」が課題なのです(前掲『戦後日本公害史論』738ページ、741ページ)。

環境再生に向けた協働のまちづくり

「環境再生のまちづくり」の先駆けとなったのが、大阪市西淀川区の公害患者会です。西淀川の大気汚染訴訟では、発生源企業との和解が1995年、国・高速道路公団との和解が1998年になされたのですが、それ以前の1991年に、患者会はまちづくりの提案である「西淀川再生プラン」(パート1)を発表しました。そして和解金の一部をもとに、公害地域再生センター(あおぞら財団)が1996年に設立されました。

同じ時期に、倉敷市の公害患者会も「環境再生のまちづくり」をめざして活動を始めました。患者会は1995年、まちづくり実行委員会を組織して「水島再生プラン」を作成・公表しました。これが公害訴訟の和解交渉を後押しし、1996年に和解が成立したのです。2000年には水島地域環境再生財団(みずしま財団)がつくられ、まちづくりの取り組みを進めています。

これらの地域再生プランは、いずれも公害被害者のめざす地域の将来像を示しています。公害被害者の運動はこれによって、加害者との紛争の段階から、対案を提示し協働のまちづくりをめざす段階へと移行したわけです。ただし、公害患者会は当事者による自助団体という性格が強く、メンバーは健康被害を受けた高齢者であるため、これまでにない活動である「環境再生のまちづくり」を進めるには、別に新たな担い手を必要としました。それが、あおぞら財団やみずしま財団のようなNPOなのです。

脱炭素社会をめざして

当時、これらの地域再生プランにおいては、工場や自動車による大気汚染公害への対策や、生活環境の改善などが前面化しており、脱炭素の課題は大きな位置を占めていませんでした。しかし現在では、急激な気候変動が、私たちの人権を脅かすまでに被害を拡大しています。世界各地で異常気象が頻発し、氷河の融解や海水温の上昇、生態系の不可逆的変化などが進行しつつあり、日本でも、毎年のように集中豪雨や巨大台風が各地を襲い、甚大な被害をもたらしています。

脱炭素は喫緊の課題です。既存技術でできることが多いとはいえ、生産設備や各種インフラの大転換が必要ですし、民主主義的意思決定のあり方までもが大変革を迫られています(三上直之『気候民主主義─次世代の政治の動かし方』岩波書店、2022年)。あらゆる領域で「緑の社会変革」(経済に力点が置かれがちなグリーン・ニューディールより広い意味で)を進めなくてはなりません。

「環境再生のまちづくり」の取り組みにおいても、脱炭素の課題をより明示的に組み込む必要があります。倉敷市水島地区では、この点を含めて地域再生プランのバージョンアップが行われています。「水島再生プラン」作成から25周年にあたる2020年、みずしま財団はまちづくりの到達点の評価を行いました。①「水島再生プラン」公表以来の環境の変化に関するデータ分析、②公害患者の思いや願いの聞き取り、③地域関係者との対話、の三つの取り組みを進め、それらを踏まえて2030年に向けた新プランと評価指標を策定したのです(傘木宏夫・藤原園子・塩飽敏史「市民からの持続可能性アセスメント─水島再生プランの自主アセスの取組から」環境アセスメント学会第20回大会報告要旨、2021年9月3日)。他の地域においても、このような到達度評価や、それに基づく地域再生プランのバージョンアップなどに着手することが求められます。

多視点性とは何か

ところが前述のように、「困難な過去」を抱えた地域で、立場の違いを超えて協働のまちづくりを進めていくのは簡単ではありません。困難の原因は、過去の経緯にあるのですから、それを避けたまま地域の分断を修復することはできません。むしろこれに正面から向き合い、公害経験の継承に取り組むことが、協働への道を切り開くはずです。

その際、重要なのは多視点性(multiperspectivity)です(清水万由子・林美帆・除本理史編『公害の経験を未来につなぐ』ナカニシヤ出版、2023年刊行予定)。これは、加害者や被害者という特定の立場から「過去」を解釈するのではなく、多様な視点からの解釈を許容しつつ、「過去」からの学びを促す姿勢を意味します。もちろんその際、当事者(加害・被害などいずれにせよ事案に関わった人々)に対する倫理的配慮や、人権や平和という普遍的価値の尊重といった基本的な視点をゆるがせにしないことが大切です。その意味で、多視点性の強調は価値中立性を志向するものではなく、むしろどのような価値を重視するのかを互いに明示しながら、「過去」の解釈をめぐるコミュニケーションを活性化していくところに眼目があります。

多視点による「過去」の解釈は、立場の違いによる分断を緩和しようとする試みです。そうした段階を経て、「困難な過去」は、学ぶべき教訓に満ちた「遺産(ヘリテージ)」へと価値転換していくでしょう。それによって分断修復が進められていくことは、水俣市で1990年代に始まった「もやい直し」の経験が示すところでもあります。

1994年に「もやい直し」という表現を初めて公式に用いた吉井正澄・水俣市長(当時)は、多くの市民が水俣病問題を避けて通ろうとしていた中で、あえてそれを前面に押し出しました。水俣という地域がもつ「個性」、他に代えがたい「地域の価値」として水俣病を捉え、まちづくりの核に据えようとしたのです。

2016年12月に水俣市で開催された、公害資料館連携フォーラム「学校」分科会において紹介された実践例をみてみましょう(公害資料館ネットワーク『第4回公害資料館連携フォーラムin水俣 報告書』2017年)。

同分科会では、地元の小学校教員が、自身は被害者の立場に明確にたちながらも、多くの生徒が加害企業チッソの従業員の子弟という状況で、どう公害を教えるかについて語りました。その教員は、自分の父親もチッソで働いていたことを明らかにしています。

チッソについては、公害を出した時代の幹部と今の従業員は違うということを明確にし、企業には「①社会に役立つもの(製品)を造る責任」「②家族を養うためのお金(生活費)を稼ぐ責任」「③世界の注目の中、環境に優しい生産活動のモデルとなる責任」「④利益の一部を水俣病補償にあてる責任」があるのだから、そこに誇りをもたせるようにするのだそうです。

これは多視点性にもとづく水俣病学習の重要な実践例だといえるでしょう。チッソを糾弾するのでも免罪するのでもなく、公害経験を踏まえて、社会に対する企業責任のあり方が導き出されているのです。

公害経験の継承を通じた協働の模索

多視点性をもって公害経験の継承に取り組むことは、地域における協働を切り開く出発点になります。本特集の林美帆論文で詳しく述べられる通り、倉敷市水島地区での経験は大変参考になります。

みずしま財団は、地球環境基金の助成を受けて2021年度から公害資料館づくりの活動をスタートしました。その中心は「みずしま地域カフェ」の開催と、それを踏まえた小冊子『水島メモリーズ』の作成です。

「みずしま地域カフェ」は、住民や外部専門家などが集まって地域の歴史について学び、それを踏まえてまちづくりの方向性などを語り合う場です(ここには筆者も毎回参加しています)。地域の将来像を考えるとき、水島地区が温室効果ガスの大口排出源であるコンビナートを抱えていることは大きな課題です。水島は脱炭素に向けた課題が山積する典型的地域であり、足もとの地域からカーボンニュートラルを進めていくうえで、水島がどう変われるかが日本の試金石にもなるでしょう。

コンビナートがあることは、将来への困難をもたらすだけではありません。公害が深刻化し、被害者によって訴訟が提起され、問題解決に向けた努力が積み重ねられてきたことによって、地域に有形・無形の蓄積がもたらされているのです。たとえば企業で公害防止に携わってきた人材や、そうした人々が織りなすネットワークなどです。地域の歴史を知ることは、こうした蓄積と潜在力の発見につながり、それを踏まえて地域の将来を考えることを可能にするはずです。

みずしま財団が資料館づくりで重視してきたのは多視点性です。被害者側の視点だけを前面に出すのではなく、多様な視点から、「困難な過去」を含む地域の歴史にふれる糸口を提供することをめざしています。こうした取り組みを重ねる中で、みずしま財団とこれまで必ずしも近しい関係になかった個人や団体との協働が深化しつつあります(2022年10月には暫定的なミニ資料館が開設されました)。

「困難な過去」を避けて通ることは、問題の解決につながりません。むしろ、公害経験の継承に正面から取り組むことが、協働のきっかけになります。ただし、その際には多視点性が重要であり、多様な立場からの解釈を包み込みながら、公害経験の継承を進めることが求められます。倉敷市水島地区における公害資料館づくりは、多視点性による協働の可能性を示しています(詳しくは、除本理史・林美帆編著『「地域の価値」をつくる─倉敷・水島の公害から環境再生へ』東信堂、2022年、をご覧ください)。

除本 理史

専門は環境政策論、環境経済学。近著に『放射能汚染はなぜ繰り返されるのか』(東信堂、2018年)、『原発事故被害回復の法と政策』(日本評論社、2018年)(ともに共編著)。