【論文】「コロナ禍」を地域・自治体から考える


新型コロナウイルス感染症が地球大に広がる中で、安倍政権の対応の酷さが際立ちます。信用できない国の政策を待たず、足元の地域に目をやり住民の命と健康、生活を守る地方自治体の公共的な役割が見直されています。

はじめに

パンデミック状態となった新型コロナウイルス感染症は、いまも南アメリカ、南アジア諸国で急激な感染拡大が進行しており、いまだ収束の兆候が見られません。

一方、日本国内での新型コロナウイルス感染症の感染確認者数は、5月26日時点で、累計1万6623人、死亡者は846名となっています。この間、安倍内閣は、緊急事態宣言条項を盛り込んだ新型インフルエンザ等対策特別措置法の改正にこだわり(詳しくは、本誌前号の白藤論文参照)、4月7日に緊急事態宣言を七都府県に発令します。さらに同16日には六道県を特定警戒地域に追加指定するとともに全国を対象に宣言を発出しました。

連休明け、新規感染確認者数が低下傾向をたどるとともに宣言解除の声が高まり、大阪府知事らによる「出口戦略」競争のなかで、5月25日にはすべての地域で解除されました。

この三カ月の間、私たちは、感染者の急拡大期、緊急事態宣言発令期、そして同宣言の解除期という三段階を経験しました。一方、秋から冬にかけて感染拡大の第二波が襲う可能性が強いといわれています。したがって、この間の、政府や地方自治体の対応策を点検するとともに、疲弊した地域経済、社会の再生を図っていくことが必要となっています。小論では、地方自治と地域の視点から、この問題について私論を述べたいと思います。

コロナ禍は「戦争」か「災害」か

コロナが全世界に広がるなかで、感染症に対する各国の為政者の姿勢の違いが明確になったといえます。米国のトランプ大統領は、明確に「戦争」であると表現し、自らを戦時下の大統領であるとして、トップダウン的な政策運営を進め、WHO(世界保健機関)と中国への非難を強めました。

安倍首相も、東京オリンピック延期を決めた際に、「人類が感染症に打ち勝った証し」と表現したように、「戦い」と捉えています。緊急事態宣言や、戦時下の統制と同様の「補償なき自粛要請」に固執した理由もそこにあるといえます。

しかし、ウイルス感染症は、「戦争」ではなく「災害」であるという見方があります。防災学者や感染症研究者は、ウイルス感染症も生物起源による人の命や健康の大規模な棄損なので、「自然災害」のひとつとして捉えています(ベン・ワイズナーほか『防災学原論』築地書館、2010年、岡田晴恵・田代眞人『感染爆発にそなえる─新型インフルエンザと新型コロナ』岩波書店、2013年)。経済のグローバル化のなかで、感染症は必然的に広がるものでもあります。また、ウイルスが長い歳月をかけて、人間を含む生物体のDNAのなかに埋め込まれていくメカニズムも解明されてきており、「撲滅すべき敵」ではなく「共生」の対象であるという認識が妥当でしょう(山本太郎『感染症と文明─共生への道』岩波新書、2011年)。

災害としての感染症対応の主体

また、「自然災害」は、必ず社会的側面をもちます。したがって、災害時の対応だけでなく、その後のケア、生活・営業再建をどうするかという事後対応が重要になります。どんな災害も、社会的弱者ほど被害は深刻です。国や自治体の施策が住民を苦しめるならば、「人災」「政策災害」となります。

では、この「対応」の主体は、誰でしょうか。国が前面に立っているように見えますが、感染するのは一人ひとりの住民であり、発生する現場は個々の地域です。したがって、感染症対策では、個々の地域に住む個人、家族、そして企業や協同組合、NPO等が、その主体となります。ですが、個々の主体では解決できない地域共通の問題を公権力や財源を用いて解決できる主体は、市区町村や都道府県です。国は、防疫体制の強化や外交的対応とともに、本来、地方自治体の施策を行財政面から支える役割をもつべきです。しかも、地方自治体や国は、それを担う公務員や公共サービス労働者がいなければ、公的な役割を果たせません。

問題は、現在、国や地方自治体が、このようなコロナ禍に十分な対応力をもっているのか、また政策内容が妥当かどうかです。

安倍政権の惨事便乗型政治の帰結

コロナウイルスが国境を越えてまん延するなかで、各国の防疫体制、国のトップの政策判断の仕方、生活補償のあり方、医療・福祉・中小企業・文化支援制度の水準の違い、また民主主義や地方自治の質的な差異も白日の下にさらされたといえます。

安倍首相の記者会見は、多くの人が指摘するように、ドイツのメルケル首相の演説と比べると、空疎な内容のものでした。しかも、二月末の突然の全国一律休校要請、三月末の布製マスク(「アベノマスク」)の全世帯配布宣言等は、専門家会議に諮ることなく、側近の提案に基づいて「政治的判断」したものでした。科学的根拠なしに、「忖度」官僚の進言を重んじ、情報も公開しない形でトップダウン的な政策を発表する姿勢は、混乱を招き、不安を拡大させただけでした。

韓国では、2015年のMERSコロナウイルス感染症への対処の失敗から学び、従来型の「封鎖と隔離」という硬直的な考え方を変え、徹底した情報公開と情報技術の活用、そして市民参加による新しい対応策(ドライブスルー型のPCR検査等)を講じて感染症の封じ込めにある程度成功し、ドイツも韓国での経験から学びました。しかし、安倍政権は、固有の嫌韓思想に縛られ、韓国での取り組みから学ぼうともしませんでした。

しかも、「アベノマスク」が特定企業に発注されたうえ不良品比率が高く回収される事態になり、個人向けの10万円給付金をはじめ中小企業向け給付金・補助金や雇用調整助成金、各種制度融資の手続きに時間がかかったり、給付手続きにあたってマイナンバーカードの活用を推奨したもののシステム的にそれが難しく、地方自治体の窓口が大混乱に陥るといった事態が相次ぎました。これらは、惨事便乗型資本主義の下心が引き起こした問題でもあります。他方で、PCR検査数や休業・賃金補償水準のレベルの低さは際立っています。

加えて、国民が命と健康、暮らしの危機に陥る中で、文字通り「不要不急」の緊急事態条項を中心とした憲法改正、国家戦略特区法(スーパーシティ構想)改正、種苗法改正、九月入学を推進するなど、「安倍政治」特有の惨事便乗型政治が横行したことも大きな問題です。極めつけは、官邸の守護神といわれた黒川弘務東京高等検察庁検事長の定年延長を合法化しようとした検察庁法改正案であり、国民の怒りが瞬く間に広がりました。首相は今国会での同法案成立を見送らざるをえなくなったうえ、その直後に賭けマージャンで黒川検事長が辞任するや内閣支持率は20%台に急落し、政権は存亡の危機に立ち至っています。

新自由主義的構造改革・行政改革の負の遺産が露呈

さらに構造的な問題がありました。今回の感染拡大過程で、もっとも大きな問題として登場したのが、PCR検査数が増えないことであり、医療現場での医療用マスク、防護服、人工呼吸器、感染症病床の不足や医療スタッフの欠員による「医療崩壊」でした。

これらは、医療用品・機器類の海外への生産シフトの進行という「グローバル化」とともに、1990年代半ばからの地方分権改革や行財政改革、市町村合併という一連の新自由主義的構造改革によるものでした。

公衆衛生分野では、1994年の地域保健法の制定と小泉構造改革の中で、保健所の数も機能も、大きく減少・弱体化していました。「社会保障統計年報データベース」によると、全国の保健所数は、1997年の706カ所から2016年の480カ所に大きく減少し、そこで働く医師数は1173人から728人に、そして臨床検査技師数も1353人から746人に削減されました。

とくに大阪府では維新の会の政策によって府立公衆衛生研究所と市立環境科学研究所が統合され、いっそう検査能力が落ちてしまいました。この間、橋下徹氏自身が「僕が今更言うのもおかしいところですが、大阪府知事時代、大阪市長時代に徹底的な改革を断行し、有事の今、現場を疲弊させているところがあると思います。保健所、府立市立病院など。そこは、お手数をおかけしますが見直しをよろしくお願いします」としたうえで、「有事の際の切り替えプランを用意していなかったことは考えが足りませんでした」と4月3日のツイッターで臆面もなく書いています。

病床や医療スタッフ不足のもう一つの背景が、厚生労働省による公的病院の再編統合策や公的医療費抑制策です。前者によって地方の公立・公的病院では、医療スタッフが流出し現場対応に支障をきたしたといいます。また、後者のために感染者の受け入れを拒否する病院・診療所が増えたり、経営が立ち行かなくなる病院・診療所が増加する事態になっています。「効率」優先の政策が、公的病院の感染症病床を減らしてしまったことは大きな問題です。医療従事者が安心して働くことができ、医療経営の危機を解消し、将来の新型感染症等に対応するためにも、国や各自治体が病院の「選択と集中」政策を直ちに撤回し、医療スタッフ面でも病床面でも余裕のある病院・医療政策に転じることが求められています。

それは、憲法二五条に定められた生存権を保障するということであり、なかでも第二項の「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」の具体化であるといえます。

地方自治体の役割と姿勢が問われる

一方、緊急事態宣言が全都道府県を対象に発令されたことにより、各知事に大きな権限と責任が生じることになりました。その状況の下で、国の方針を待って対応が後手になる知事がいる一方で、東京都の小池百合子知事や大阪府の吉村洋文知事のようにマスコミを意識して耳目を集めるパフォーマンスを繰り返す知事が出てきたのも一つの特徴です。

今回のコロナ禍で、国民や住民にとっての大きな不安は、PCR検査がなかなか受けられないなかで「医療崩壊」が起きつつあることに加え、国による「補償なき休業要請」で経営や生活がなりたたないという事態でした。日本公衆衛生学会の声明(3月27日)でも、感染拡大を防止するためには、「国や自治体には自粛要請と経済的支援や補償を一体とした対応と施策の実施を求めます」としており、それは圧倒的多くの国民の声だったといえます。しかし、安倍政権は補償を否定しただけでなく、自治体が補償金を支出することにも歯止めをかけました。この結果、自治体側では、財政力のある東京都は相対的に多額の「協力金」を払えても、財源がない県ではそれができないという事態に立ち至ったのです。

感染防止を本気でやろうとするならば、欧州諸国並みの休業・賃金補償は国として当然やるべきことであり、都道府県や市区町村は、これに各地域の特質に合わせた助成を加えるのが最も合理的な方策です。このような財源補償をしなかったために、今や倒産や廃業、失業、生活保護申請が急増する事態になっているのです。

さて、もう一つ大きな問題は、緊急事態宣言の指定や解除が都道府県単位で行われ、基準も非科学的である点です。感染確認者や死亡者は、東京都を中心とする大都市圏に集中しています。また、同一県内でも県庁所在地に八割近く集中しているところが数多くあります。にもかかわらず、全国一律あるいは都道府県一律で同一内容の休業要請や行動規制を行ったり、その解除を行うこと自体が非科学的です。韓国では、自治体を小地域ごとに区分し、感染者の発生密度を詳細メッシュで表現しています。大量のPCR検査で信頼度の高いデータになっているため、市民は合理的に行動することができます。

さらに、宣言解除を目指していち早く「大阪モデル」を打ち出した大阪府の場合、三つの基準そのものには科学的根拠が薄いと府の専門家会議の座長が語っています。解除後、「大阪都構想」に関する住民投票の年内実施を松井一郎大阪市長が表明したように、ここでも惨事便乗型政治の大阪版を見ることができます。

コロナ禍で浮かび上がった「公共」の重要性

これに対して、本来の「住民の福祉の向上」という地方自治体の本来のミッションを実現するために取り組んだ自治体も存在します。例えば、和歌山県では、早い時期に湯浅町の病院で感染者が出たために、医療スタッフや患者、住民の不安を払しょくするために、仁坂吉伸知事が先頭に立って、国の基準に依らずに徹底的な検査をおこないました。その結果、新たな感染者の発生を抑えることに成功しています。まさに、国ではなく、地域の住民に目を転じることの重要性を物語っています。

その後、基礎自治体も含めて、それぞれの地域の実情に合わせた多様な独自施策が、創造されてきています。その内容については、自治体問題研究所のホームページに掲載していますので、ぜひ参考にしてもらいたいと思います。

コロナ禍で、多くの人々が、公衆衛生や医療・介護、さらに交通、物流、食品小売業、農業だけでなく、教育や文化などの仕事の重要性に気づきました。その基礎を担うのが「公共」分野で働く人々であることも明確になりました。地方自治体を国の統制と私的企業の儲けの対象としか考えない安倍政権の「自治体戦略2040構想」では、人々の命と生活は守れません。

いま、主権者である住民の幸福追求権、生存権、そして財産権を保障する憲法の観点から、自治体の姿を本来のあり方に戻すチャンスでもあります。また、地域社会では互いに生きるための地域内取引や連帯経済の取り組みが広がってきており、そこに新たな「アフターコロナ」社会のヒントがあるといえます。コロナ禍を機に、個々の地域において、公衆衛生・医療・福祉に留まらず、住民生活、産業や就業の状況、国土保全のあり方も統合した「地域の将来ビジョン」を現地調査に基づいてつくり、実践する取り組みが求められています。

まさに、地域の自治力が試されている時代であるといえます。

(5月26日記)

岡田 知弘
  • 岡田 知弘(おかだ ともひろ)
  • 京都橘大学現代ビジネス学部教授

1954年富山県生まれ、京都大学大学院経済学研究科博士後期課程退学。岐阜経済大学講師を経て2019年3月まで京都大学大学院経済学研究科教授。自治体問題研究所理事長。京都大学名誉教授。専攻は地域経済学、農業経済学。著書に『地域づくりの経済学入門 増補改訂版』『公共サービスの産業化と地方自治』『「2040自治体戦略構想」と地方自治』(共に自治体研究社)ほか多数。