【論文】保育現場の実態から保育労働の専門性を考える


はじめに

3月、私にかけがえのない日々を与えてくれた5歳児クラスの子どもたちが小学校へと巣立ちました。担任として5歳児を見送るのは14回目でしたが、今回も喪失感と満足感と期待感が複雑に絡み合う独特な感覚を味わいました。どの年齢を担任しても子どもたちがかわいいこと、保育が楽しいことに変わりはありません。でも、私はとりわけ5歳児クラスが好きです。苦楽を共にし、一緒に保育を創る醍醐味を味わえるからです。

しかし、あちこちの保育現場から「5歳児だけは受け持ちたくない…」という声が漏れ聞こえます。保育園の主人公として行事をリードしなければならないし、地域の方々との交流もあるし、小学校に提出する「保育要録」などの事務もあります。保育園において「5歳児担任」と「多忙」は同義語なのです。その上、国が定める4、5歳児の保育士配置の最低基準は、70年以上前から変わらず、子ども30人に対して保育士1名。山ほどの仕事を抱えながら、たくさんの子どもを一人で保育することになります。だから受け持ちたくなくなるのです。

翻って、私は5歳児保育の楽しさをずっと謳歌してきました。東京区部の公立保育園には、最低基準を超える保育士が配置されているからです。私が働いている保育園も、十分とまでは言えませんが、5歳児クラスを複数の担任で保育できる人員は確保できています。

1960年代後半、東京に誕生した革新都政は、住民運動と労働運動の後押しもあって、0歳児保育のための看護師・調理員の配置、長時間保育のための保育士の配置など、数々の独自の基準をつくりました。「都基準」です。この基準は一部の自治体を除き今も残っています。だから私は、5歳児たちとの生活を純粋に楽しめるし、通常の保育事務に加え、日々「クラスだより」を綴る時間を捻出することも可能になります。それにより、保育内容を可視化させ、保護者に伝え、自らも振り返って次の保育に活かせているのです。

この程度は、北欧や中欧では当たり前です。しかし、日本ではまだまだ特別。保育労働の専門性が軽視されているからです。以降、その問題を探りながら、本来あるべき姿を検討します。

公立保育園における保育労働の専門性の危機

広島市の公立保育園は、正規の保育士はひとクラスに1名が基本で、年度途中の異動が頻繁に行われているそうです。産休者や病休者が出るたびに担任が不在となるからです。しかし、頭数がそろっていればいいわけではありません。子どもひとりひとりと良質なアタッチメント(愛着)を形成できなければ保育は成立せず、経験があろうがなかろうが、それは一朝一夕でできるものではないからです。安心感がないと、子どもはいろいろなことに興味をもって新しいことに挑戦することができません。

他方、クラスに正規保育士が1名のみということは、その他はすべて会計年度任用職員ということになります。正規が会計年度任用職員より優れていることなどはもちろんありませんが、低賃金に加えて1年単位で任用される不安定雇用の会計年度任用職員が正規と同じ仕事をさせられるため、保育の重要なファクターであるチームワークに支障をきたすケースがどうしても多くなってしまいます。にもかかわらず、今や半数が会計年度任用職員というのは当たり前で、園長と主任以外は全員が会計年度任用職員という自治体もあるのです。

公立保育園に限った話ではありませんが、先に触れた職員配置基準の問題もあります。1歳児6人に対して保育士1名、4、5歳児30人に対して保育士1名などの基準は世界的にみても劣悪です。加えてひとクラスの子どもの数も多いのです。OECDの「幼児教育・保育の国際比較」という調査によれば、日本の保育者が受け持っている人数は平均で22・7人。イスラエル、チリと並んで多いとのことです。

その他の調査結果をみても日本の保育条件がいかに酷いかがわかります。保育士の労働環境は調査参加国の中でもっとも過酷な状態にあり、週当たりの実質の労働時間は50・2時間ともっとも長く、子どもとかかわらない業務は韓国に次いで長時間で、給与への満足度はアイスランドに次いで低く、離職率は参加国中最悪です。国が保育労働の専門性を軽視しているのは一目瞭然ではないでしょうか。

再び、公立保育園の話に戻します。公立保育園は自治体直営なので、いい意味でも悪い意味でも自治体の政策が現場にダイレクトに降りてきます。昨今、公立保育園の所管を教育委員会にする自治体が増えていますが、文部科学省は、幼稚園、保育園、認定こども園など施設の類型にかかわらない共通のカリキュラム「幼保小架け橋プログラム」の開発・普及に力を入れており、その波が公立保育園にも押し寄せつつあります。

そもそも、保育カリキュラムは、専門的な知識を有する保育士が、子どもの発達の道筋を踏まえながら、目の前の子どもたちの状況に即して立案し、子どもたちの要求や変化に応じてその都度見直し、改編するもので、全国一律のカリキュラムで「保育しろ」というのが無理な話です。文部科学省のねらいが幼児教育の管理統制の強化であることは明白ですが、近年、国から自治体へ、自治体から現場への上意下達が強化され、現場の主体性は風前の灯火です。にもかかわらず、文部科学省が「小学校教育を見通して『主体的・対話的で深い学び』にむけた資質・能力を育む」ようにとけしかけ、そのために、保育の主導的活動である「あそび」を「学び」の手段として活用せよと迫っているのです。

一方で現場の主体性を縮小し、保育士同士で対話する時間もままならない労働条件で働かせながら、もう一方で子どもの主体性や対話を大切にせよという…。まさに二律背反です。加えて、主体性ばかりを強調し、客体性を軽視する傾向も気になります。客体とは誰かから教えられる行為であり、子どもの「学び」には欠かせない要素だからです。

保育カリキュラムについてはICT(情報通信技術)化の流れも無視できません。現場の負担を軽減するという名目で、公立保育園においてもICT化が進み、民間事業者が開発したソフトが導入され、登降園の管理、保護者への連絡などさまざまなメニューが提供されています。その中には、AIによる予測提案機能が備わる「保育指導案作成」「月案作成」「年間指導計画作成」などもあります。それらで計画をつくれば、経験の浅い保育士でも短時間で作成できます。しかし、その計画が目の前の子どもたちに即したものになるとは考えにくく、保育士の専門性の向上を阻害する恐れすらあります。

株式会社立保育施設の闇

2022年、保育事業の大手企業「株式会社グローバルキッズ」が、保育士の人数を水増しして自治体に報告するなどして運営費を不正に受給していたことが発覚しましたが、他の株式会社立保育施設でも同様の事件が続発しています。

こういうことのないように、児童福祉法は都道府県に認可保育園に対する年1回以上の指導検査を義務付けています。しかし、2020年の実施率は全国平均で38・7%。東京都に至っては4・3%しか実施できていません。全国各地で相次いでいる不適切保育も、これに相関している可能性は否定できません。国は直ちに実地検査の実施率を高める方策を打ち出すべきですが、条件付きで書面による検査を認める規制緩和を断行しました。やることがさかさまです。

株式会社立保育施設には、弾力運用の問題もあります。2000年、国は保育事業への企業参入を認め、同時に委託費(補助金)を弾力運用できる規制緩和を実施しました。参入を促すには利益を上げられる仕組みをつくる必要があったからです。弾力運用とは、人件費、事業費、管理費を相互で利用できるようにし、系列の保育園や新規の保育園を建てる資金にも利用できるようにし、本部経費として上納させることも可能です。これを悪用して人件費の割合を減らすところも多く、それでなくとも低い保育士の賃金がさらに削られています。ある調査によれば、都内の認可保育園で最も年間賃金が低かったのが「ミアヘルサ保育園ひびき中板橋」の約228万円で、下位30位までの大半を株式会社が占めています。

国は、一方で公立保育園の民営化を誘導しながら、待機児童解消のためと称して、質の向上は脇に置き、量の拡大を優先し続けました。その結果、営利目的の事業者が大挙参入し、この国の保育は公立・社会福祉法人中心から、企業中心に様変わりしました。企業の使命は、株主に配当金を配ることなので、徹底したコストカットが行われ、弾力運用という制度を悪用して本社が補助金を吸い上げるようになりました。

さらに、認可外保育施設は野放し状態で、小規模保育事業、企業主導型保育など、多様な形態の保育施設が乱立し、儲からなければ撤退は当然、保育事業のM&A(合併と買収)も当たり前になりました。低賃金と重労働で離職者はとどまるところを知らず、保育士になりたい学生も、復職したい保育士も減少の一途をたどっているのです。

公立保育園も問題山積ですが、民間保育施設、特に株式会社立保育施設には多くの闇が存在しており、法改正を含む改善策が必要です。ところが、国は見て見ぬふりを続けます。保育は経済政策の一端であり、株式会社立保育施設というパーツは欠かせない存在だと考えているからです。

おわりに

岸田首相は、異次元の少子化対策に挑戦する、子ども・子育て予算の将来的な倍増をめざすと公言しています。何を指して異次元なのか、どのように倍増するのか、倍増してどういう施策を行うのかなど、すべてがあいまいですが、今、この国に本当に必要なのは普通の労働政策であり、普通の子ども政策です。

普通の労働政策とは、長時間労働を是正し、普通に働いて、休みたいときに普通に休めて、それで普通に生活できる賃金を得られる国にすることです。そうすれば、ゆとりが生まれ、自由な時間、家族で過ごせる時間も増えます。11時間が標準という、世界的に見ても異常な長時間保育を是正することも、夜間保育や休日保育などもなくすことができるのです。

 

▲芝滑り(筆者提供)

普通の子ども政策とは、子どもの意見を真摯に受け止め、子どもの最善の利益を優先する政策のことです。保育においては、保育産業に利潤追求の場を提供する経済政策から脱却し、「すべての子どもが享受すべき権利としての保育」を確立することです。保護者が働いていようがいなかろうが、子どもたちが良質な保育を受けられるようにすることです。

「すべての子どもが享受すべき権利としての保育」が確立されれば、この国で暮らすすべての乳幼児が保育園に入れるようにする、すなわち「全入」がめざされることになり、享受すべき権利にふさわしい環境や専門性を有する人員の配置が必要になります。最低基準がこのままでいいはずも、保育労働者の賃金や労働条件がこのままでいいはずもなくなり、国や自治体の保育に対する責任は強化され、地域の保育の要として公立保育園は必要不可欠な存在となるのです。

そうなってはじめて保育労働の専門性がいかんなく発揮され、子どもと保護者と保育労働者が幸せになれる保育が確立されるのです。

北欧、中欧の国々では実現できているのだから、日本にできないはずはありません。その日を夢見て、そこをめざして、運動の輪を広げていきたいと思います。

髙橋 光幸