社会教育政策の変質に対峙する

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学ぶ権利を、変質させようとする社会教育政策が加速しています。「公正な民意」によって運営される教育機関を、私たちの足もとからつくっていく取り組みが求められます。

社会教育政策における「学び」の変質

2024年6月25日、中央教育審議会に対して文部科学大臣から諮問が出されました。「地域コミュニティの基盤を支える今後の社会教育の在り方と推進方策について」ですが、この諮問の背景には2023年6月に閣議決定された第4期教育振興基本計画があります。この教育振興基本計画では、「持続可能な社会の創り手の育成」と「日本社会に根差したウェルビーイングの向上」の二つが理念とされ、五つの方針と16の教育政策目標や指標が示されました。そして、「グローバル化する社会の持続的な発展に向けて学び続ける人材の育成」が1番目の方針に位置付けられました。しかし、ここには「教育を受ける権利」の記載が1カ所もありません。「社会教育による『学び』を通じて人々の『つながり』や『かかわり』」をつくり出すことは強調されていますが、基本的人権としての学習する権利についての記載がないのです。そのために、「学び」という言葉は合計131カ所もでてきますが、その言葉は極めて薄っぺらなものにとどまっています。

戦後になってはじめて日本では、「教育を受ける権利」が基本的人権として日本国憲法26条に規定されました。そしてこの権利の意味するところが、「国民各自が、一個の人間として、また、一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利」であることが1976年5月21日の最高裁判決で示されてきました。この日本国憲法により戦後日本では、社会教育の役割は学校教育とともに、教育を受ける権利、すなわち学習をする権利を生涯にわたって実現していくことにあるとされてきました。

1948年に国連で採択された世界人権宣言26条においても、教育の目的は「人格の完成」にあるとされましたが、この英語表記は「the full development of the human personality」となっています。直訳すれば、人間の個性を全面的に開花させていくこと、と訳すことができるでしょう。この人間個性の全面的な開花を、生涯にわたって一人ひとりが追求することを、教育目的としたのが戦後日本の教育でした。そしてまた、一人ひとりが学習することを通して「国家と社会の形成者」、すなわち主権者として生きることができるようになっていくことも、教育目的として掲げられました(1947年制定の教育基本法1条)。自治体と国は、この学習権を住民に保障していく責任を負ったはずでした。

しかし、近年の社会教育政策における「学び」は、基本的人権としての学びを変質させるものになってきているのです。

軽視される社会教育職員の専門性

これと連動して、社会教育職員の専門性が軽視される政策が推進されようとしています。「学び」の重要性は叫ばれても、それを専門的に支援する教育職員の存在はほとんど語られません。語られたとしても身分は不安定なままで肩書きとしての資格を付与するだけ、またはビジネスなど多様な主体との連携がむしろ重要視される傾向が顕著になっています。2024年6月の中央教育審議会・社会教育人材部会まとめでは、社会教育人材養成に求められる内容が次のように書かれていました。

「社会教育主事の職としてはもちろん、社会教育士として活動を行う場合であっても、社会教育行政をはじめとする関係行政機関やNPO、企業等の多様な主体との連携・協働が想定され得る。このため、養成段階から、社会教育行政に関する一定程度の基本的な知識を含め、関係行政機関や多様な主体と連携・協働を図りながら、学習成果を地域課題解決等につなげていくための知識や技能の習得を図ることが必要」(8ページ)

ここには、学習成果を行政側が求める地域課題の解決につなげていけることが、社会教育人材の職務とされているかのような記載が続いています。まるで学習者を地域課題解決のための人材とみなし、その人材を育成することが社会教育人材に求められているように読めてしまいます。このように、基本的人権としての学習する権利が位置付けられないまま、資格としての社会教育士の活用だけが一人歩きしていけば、教育職員に求められる専門性の低下が危惧されます。教育職員にはまず何よりも、住民一人ひとりの学習権実現を、専門的に支援していける力量形成が求められるはずでした。学びは地域づくりのためにだけあるのではないし、地域づくりと結びつかない学びの意味が低いと一律に判断することはできません。

以上のように、政府の第4期教育振興基本計画、そして中央教育審議会・社会教育人材部会まとめで示されている社会教育の振興策は、憲法26条で規定されているはずの「教育を受ける権利」(=学習する権利)を変質させるものになってしまっています。行政の側が設定した地域課題解決に、社会総ぐるみで立ち向かうことを、住民にも自治体にも求めるこのような内容が、基本的人権としての学習権を欠落させながら、官民あげての「社会教育活動」政策として推進されようとしているのです。

「日本社会に根差した」論の危うさ

このような学ぶ権利の変質は、第1期安倍政権によって2006年12月に教育基本法が改定された時から続いているものです。この時に、「公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと」が、国民的な議論を欠いたまま前文と教育目標を定めた第2条に書き加えられてしまいました。また「規範意識」は、その後の学校教育法改定によって義務教育の目的として追加されました(学校教育法21条)。この「公共の精神」が、第4期教育振興基本計画の中にもそのまま書き込まれているのです。しかし、「公共の精神」と「規範意識」をもって「主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養う」教育・学習とは、いったいどんなものなのでしょうか。一人ひとりの態度を養うことを教育目標として法律で規定することに対しては、憲法で保障されている思想信条の自由に反するとの批判が当時だされましたが、現在の社会教育現場では語られなくなっています。

冒頭で触れたとおり第4期教育振興基本計画には次のように、「教育を通じて日本社会に根差したウェルビーイングの向上を図っていく」ことが理念として掲げられました。

「我が国においては利他性、協働性、社会貢献意識など、人とのつながり・関係性に基づく要素(協調的要素)が人々のウェルビーイングにとって重要な意味を有している。このため、我が国においては、ウェルビーイングの獲得的要素と協調的要素を調和的・一体的に育む日本発のウェルビーイングの実現を目指すことが求められる」(9ページ)

「日本社会に根差した」とは、西欧が個人の意識を重視することに対する概念として使われているようですが、このことばは何を意味しているのでしょうか。自己実現と社会貢献を「調和的・一体的に育む」とは、どういう意味なのでしょうか。主権者は国民と住民であり、社会と国家を形成する主権者に一人ひとりなっていくことが、「人格の完成」と並ぶ教育の目的であったはずです。しかしこの閣議決定された計画には、「『同調圧力』につながるような組織への帰属を前提とした閉じた協調」ではないという記載もされてはいますが、同調圧力と「日本社会に根差した」協調性の区分けは示されていません。日本的な協調性の重視は結局、同調圧力との区別がとれなくなっていくことが危惧されます。

さらに第4期教育振興基本計画では、社会教育の学習成果を生かしている者の割合を増加させることが、政府の目標として設定されています。たとえば「目標10 地域コミュニティの基盤を支える社会教育の推進」指標としては、「これまでの学習を通じて身に付けた知識・技能や経験を①家庭・日常の生活に生かしている者の割合の向上、②地域や社会での活動に生かしている者の割合の向上」(66ページ)があげられています。こうした、学習の成果を社会に結びつけることを目標とする政策が生まれてきた背景にも、「社会の要請にこたえ、社会においておこなわれる教育」(2006年改定の教育基本法12条)という規定が社会教育の条文に書き加えられてしまったことがあります。1947年制定の教育基本法では、教育が「社会の要請」にこたえて行われるものとはされていませんでしたが、2006年以後は、「社会の要請」に社会教育がこたえる度合いが、目標として政府によって管理されようとしているのです。

自治体に問われる教育大綱づくり

2006年の教育基本法改定によって、「教育振興基本計画」を策定することが国と自治体に求められるようになりました。ただし、政府にその策定が義務付けられたこの基本計画は、自治体にとっては「参酌さんしゃく」基準となっています(17条2項)。参酌基準とは、参照することは義務付けられるが政府の計画に拘束されるものではなく、何を取捨選択するかの判断は各自治体に委ねられていることが、これまで総務省作成資料でも示されています(2009年10月7日の地方分権推進委員会で配布された総務省作成資料など)。

2014年に地方教育行政法が改定されてからは、総合教育会議の設置と教育大綱の策定がすべての自治体に義務付けられました。現在は、首長と教育委員会は同じ執行機関どうしとして、総合教育会議において協議するだけではなく、それぞれの権限を「調整」することが重要な役割になっています(2014年7月17日、文部科学省通知)。そのまちの住民が、生涯にわたって自由に学習することができるための条件整備の役割と責任が、各自治体に問われています。先に触れた政府の目標に関しても、どんな学習成果を「目標」に設定するのか否か。そしてだれが、その目標を設定するのかがそれぞれの自治体に問われます。財政的な困難さが増していればなおさら、限られた財源の中で、住民の学ぶ権利をいかにして実現させていくのかが、各自治体に問われているのです。

身近な生活の場面で、自分とは異なる意見の人とも自由に議論することができる。本当に知りたいことや、本当はやってみたいことを、学んだり取り組んだりすることができる。社会教育は現代において、動員による地域づくりや自己責任によるなどとは異なった価値を実現しうるものなのではないでしょうか。一人ひとりが抱く疑問を、無視したり諦めさせたりするのではなく、社会で支えることのできる仕組みをつくっていくうえで、社会教育は大切な役割をこれからも持ちうるでしょう。こうした人々の学び合いを社会で支えていくためには、身近な施設と信頼できる職員を守っていくことがカギとなります。限られた財政状況下においても知恵を出し合いながら、この二つを持続させていくことが希望につながります。逆に言えば、身近な施設の配置、および住民から信頼を得られる教育職員を大切にしないで、「学び」ということばだけを繰り返す社会教育「推進」政策は、危ういということになります。

社会教育をめぐる戦前の歴史を忘れない

1929(昭和4)年に設置された社会教育局は、ファシズム体制下の1942(昭和17)年11月に教化局などに再編された歴史を私たちはもっています。敗戦直後の1945年11月に、社会教育局は文部省内に復活しましたが、現在は再び社会教育局がなくなっています。1988年に文部省の筆頭局として生涯学習局にされた後、2001年には生涯学習政策局に、さらに2018年には総合教育政策局に改組されました。この時に、それまで局内に残されていた社会教育課も消滅してしまったのです。現在は生涯学習推進課と、地域学習推進課という不思議な課が残されているだけになっています。小学校なども戦前、1941年から国民学校に変更されました。教育の変質は、民主主義の変質と並行して起こってきた歴史を、私たちは忘れてはいけないでしょう。

さらにさかのぼれば、西欧文化が流入した明治初期、日本文化の復古をめざす動きが1879(明治12)年の「教学聖旨せいし」として顕在化した歴史を、私たちはもっています。仁義忠孝を土台としながら、西洋文化を「醇化じゅんか」させていく日本固有の教育を求めた流れはその後、1890(明治23)年の教育勅語につながり、その影響力は1948年まで続いたことを、私たちは忘れてはならないでしょう。

先に紹介した中央教育審議会・社会教育人材部会まとめの「学びを基盤とした社会教育活動」では、学習権を実現させていくことと、住民による自治活動の区別があいまいなものにされてしまっています。これでは、日本国憲法26条に規定されている学習する権利が、「社会教育活動」振興という名のもとに組み込まれて、地域づくり動員の手段となってしまいかねません。

現在も教育委員会制度は執行機関としてかろうじて残されてはいますが、「不当な支配」に服さない教育のあり方、「公正な民意」によって運営される教育機関の管理運営のあり方が明らかになっているわけではありません。教育実践の自律性を支えることのできる民主主義を、私たちの足もとからつくっていく取り組みが求められています。

荒井 文昭

だれが教育を決めているのか、決めるべきなのかを研究している(教育政治研究)。著書に『教育の自律性と教育政治:学びを支える民主主義のかたち』(大月書店、2021年)、『教育管理職人事と教育政治』(大月書店、2007年)、他。

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