熊本水俣病公式確認から70年。当時、日本は高度経済成長に突入し、公害が深刻化しつつありました。本稿では公害・環境問題の歴史を振り返り、いま学ぶべき教訓を考えます。
歴史から学ぶべきこと
公害は過去の出来事でしょうか。たしかに、高度経済成長期を中心にきわめて深刻だった大気汚染や水質汚濁などは、対策が進んでかなり改善されました。しかし水俣病をめぐって、切り捨てられてきた被害者が救済を求める裁判が続いていますし、アスベストのように、長期の潜伏期間を経て健康被害がいままさに顕在化している問題もあります。
また、2011年3月に起きた福島原発事故は、自然災害と複合した公害事件といえます。PFAS(有機フッ素化合物)など、新たに注目されている環境汚染もあります。ダイキン工業淀川製作所周辺のPFAS汚染では、2025年12月、住民が大阪府公害審査会に調停を申請しました。公害はいまも終わっていないのです。
軍拡が進むもとで、軍事活動による公害・環境問題にも注目する必要があります。これまでも米軍の飛行訓練による騒音公害、基地建設による自然破壊などが問題となってきました。また、PFASや石油などによる環境汚染も起きています。もちろん戦争は深刻な環境破壊をもたらしますが、「平時」でも軍事活動がさまざまな問題を引き起こしていることに目を向けるべきでしょう。
本稿では、戦後日本の公害・環境問題の歴史を振り返り、そこから私たちがいま学ぶべき教訓を考えます。問題が起きてから対策をとるのではなく、先取り的に対策を進めるべきこと、市民の力と自治体の先進的取り組みが政策を変えてきたこと、社会経済システムの全体を視野に入れて対策を考えることー日本の公害経験はこうした教訓を示しています。
システム改革の視点
戦後日本の公害研究を牽引した宮本憲一は、公害・環境問題の原因構造を考える際、社会経済システムを広く視野に入れることを強調しました。とくに重要な領域として、①資本形成(蓄積)の構造、②産業構造、③地域構造、④交通体系、⑤生活様式、⑥廃棄と物質循環、⑦公共的介入のあり方、⑧市民社会のあり方、⑨国際化のあり方、が挙げられます(宮本憲一『環境経済学(新版)』岩波書店、2007年)。
これらが相互に関連しつつ、さまざまな問題を引き起こしているため、その解決にはシステム改革の視点が重要になります。以下で、戦後日本の経験に即してこのことを見ていきましょう。
高度経済成長と公害の激化
日本では1950年代半ばから高度経済成長が始動し、四大公害事件(イタイイタイ病、熊本水俣病、新潟水俣病、四日市ぜん息)に典型的に見られるように、企業の経済活動に起因する産業公害が深刻になりました。また、大都市に人口が集中し、生活排水、ごみ、自動車排出ガスなどの都市・生活型公害も徐々に問題化していました。
このように公害が深刻化した原因として、労働者の安全・健康や公害防止のための投資を、企業が節約しようとする傾向が非常に強かったことが挙げられます。これらの投資は利潤を生むことに直接つながらないためです。
加えて、国と自治体の地域開発政策は、工業地帯を拡大し、公害の深刻化と拡散を招きました。1960年の国民所得倍増計画では、東京、名古屋、大阪などの太平洋ベルト地帯に、新しい工業地帯を造成する方針が打ち出され、大都市周辺部に、鉄鋼・石油化学などの素材型重化学工業や、エネルギー産業のコンビナートが次々と建設されていったのです。
さらに、1962年に決定された全国総合開発計画は、太平洋ベルト地帯で進められていた拠点開発方式を全国に広げようとするものでした。拠点開発方式とは、要所に開発拠点をつくり、その周辺へと開発効果の波及を期待するものです。大規模なコンビナートが住民の居住区域に近接して造成されたところでは、公害が深刻化していきました。
一方、四日市公害などの先例を見て、コンビナート開発を止めた地域もあります。静岡県の三島・沼津・清水2市1町では、1963~1964年に住民運動が盛り上がり、石油化学コンビナート進出が阻止されました。こうして事前に食い止めた地域は良かったのですが、自然を破壊して産業基盤を整備したにもかかわらず工場誘致に失敗した自治体は、深刻な財政難に直面することになりました。
「下から」の政策形成
公害の深刻化に対して、公共的介入のあり方はどうだったのでしょうか。日本の公害対策は「民間企業追随主義」が強く、立ち遅れていたと指摘されています。1967年に制定された公害対策基本法には、経済の健全な発展の範囲内で生活環境保全を行うという「経済調和条項」が含まれていました。この問題点により、法制定後にむしろ「汚染が全国に広がりはじめた」と批判されたのです(庄司光・宮本憲一『日本の公害』岩波書店、1975年、149~150ページ)。
国の対策が遅れる中で、大都市部では1960年代半ばから、公害反対の世論や住民運動を背景に自治体改革が進められました(革新自治体の誕生)。公害防止協定の締結や公害防止条例の制定など、自治体が国に先んじて独自のイニシアティブを発揮したことは特筆されます。
国の環境政策が本格的に形成されるのは、やっと1970年代に入ってからです。公害問題について集中的討議が行われた1970年のいわゆる「公害国会」では、公害対策基本法が改正され、「経済調和条項」が削除されました。1971年には環境庁(現・環境省)も発足しています。
1960年代後半に提起され、1970年代前半に被害者側の勝利に終わった四大公害訴訟も、環境基準の設定・強化や、被害者救済制度の策定など、環境政策の前進に大きく寄与しました。例えば1973年に制定された公害健康被害補償法は、公害訴訟をきっかけとしてつくられた、日本独自の制度としてよく知られています。同法は、大気汚染による健康被害の補償において重要な役割を果たし、指定地域は1978年までに41地域に広がりました(図)。
このように戦後日本の環境政策形成の特徴は、国政レベルの「上から」の動きではなく、住民運動や公害訴訟など「下から」の取り組みが大きな力を発揮した点にあります。人々の世論と運動が、政策を変えてきたのです。
1970年代以降の変化
1970年代以降、工業生産が先進国経済で比重を低下させていく「脱工業化」の傾向が、次第に顕著になりました。1950年代以降の各国での経済成長の持続によって、1960年代半ばには生産能力が過剰になり、第1次石油危機を契機として1974年には世界的な不況に突入しました。各国の国民総生産の実質成長率はマイナスとなり、日本経済もこれ以降、いわゆる「低成長」の時代に入ることになります。
この時期、産業公害が以前に比べれば改善する一方で、都市・生活型公害が社会問題化しました。また、公害にとどまらず自然破壊、の領域へと市民の関心が広がったことも特徴的です。
産業公害が改善されていった原因として、まず、産業構造の転換が挙げられます。公害発生源となってきた素材型重化学工業は、過剰な生産能力を抱えたまま1974年の不況に入り、大きな打撃を受けました。それに代わり、家電や自動車などの加工組立型産業が成長し、日本経済は他の国々に比べて例外的な回復を見せたのです。
ただし、加工組立型産業は、素材型重化学工業に比べて資源・エネルギー消費が少ないとはいえ、公害がなくなったわけではありません。正確にいえば、半導体産業による地下水汚染のように、形を変えてあらわれたと見るべきでしょう。また、産業構造転換の裏面として、資源浪費型・環境破壊型の生産工程がアジアを中心に海外へと立地され、公害輸出を伴ったという点にも注意が必要です。
公共的介入のあり方について見ると、素材型重化学工業における過剰な生産能力を整理し、産業構造転換を進めるさまざまな政策がとられました。また、先行した一部自治体を追う形で、国のレベルでも公害対策、環境政策が進展しました。それによって、企業の公害防止投資は1970年代前半に大幅に増加しました。省エネルギーによるコスト削減という動機からも、企業の公害対策が進みました。
大気汚染対策の経済評価
1970年代以降における官民の公害対策は、どれほど有効だったのでしょうか。大気汚染を事例としてこのことを見てみましょう。
1991年に環境庁(当時)の若手有志が作成したレポートがあります(地球環境経済研究会編著『日本の公害経験ー環境に配慮しない経済の不経済』合同出版、1991年)。これによると、四日市地域において1970年代以降に企業や自治体が行った対策(排煙脱硫などの公害防止投資、監視測定体制整備、緑地造成など)の費用は、年間147億9500万円でした(1989年度価格、以下同じ)。これに対し、対策がとられなかった場合に生じたであろう健康被害額は、年間210億700万円にのぼります。健康被害を金銭評価だけで考えることには問題がありますが、費用対効果だけを見ても、これらは合理的な対策だったことがわかります(表)。
出所:地球環境経済研究会編著『日本の公害経験ー環境に配慮しない経済の不経済』(合同出版、1991年)32~35ページから筆者作成。
実際には対策がとられたため、健康被害額は年間13億3100万円に抑えられました。この被害は主に初期の対策が不十分だったために生じたものであり、より早く対策をとっていれば避けられたはずです。事後的な対策よりも、先取り的・予防的な取り組みを進めるほうが、結果としては合理的だったといえます。このレポートでは、対策の遅れにより甚大な被害を引き起こしてしまった熊本水俣病やイタイイタイ病についても試算を行い、先取り的対策がやはり合理的だったことを明らかにしています。
引き続く都市・生活型公害
1970年代には、都市・生活型公害が大きな社会問題となりました。これは次のような原因によります。
まず、大都市の人口増加に歯止めがかからなかったことがあります。大都市への人口集中は、1970年代後半にひととき沈静化したものの再び増加へと転じ、1980年代に入ると「東京一極集中」と言われるように、東京を中心に人口増加が続きました。
また、日本の公共投資のあり方も作用しています。高度経済成長期の公共投資のうち、最大のものは道路整備でした。その結果、自動車中心の交通体系が形成され、排出ガス汚染が深刻化しました。大都市に人口が集中したにもかかわらず、産業基盤整備が公共投資の中心を占め、生活関連の社会資本整備が量的・質的に立ち遅れたため、さまざまな都市問題が生じました。
さらに、高度経済成長期を通じて人々の生活様式が変化し、米国のような大量消費型になったことも挙げられます。特徴的なのは、家電など耐久消費財の増加です。消費生活が変わった結果、ごみが量的に増加しただけでなく、その中身も変化し、処理困難なプラスチックなどの化学製品や、処理費用のかかる粗大ごみなどの問題が浮上しました。
環境政策の後退と異議申し立て
この時期、規制緩和などを主張する新自由主義の影響が強まりつつありました。そのような中で、1970年代末から環境政策の後退が始まり、二酸化窒素にかかわる環境基準の緩和(1978年)などがなされました。
こうした後退への異議申し立てとしてスタートしたのが、公害患者たちによって提起された一連の大気汚染訴訟です(本誌2022年12月号の拙稿参照)。その先頭を切ったのが、1978年に提起された大阪市西淀川区の訴訟でした。そこでは、関西電力など大口排出源企業とともに、道路設置管理者として国及び阪神高速道路公団が被告とされました。
さらに1980年代に入ってから、川崎市、尼崎市、名古屋市での提訴が続き、1996年には初めて自動車メーカーを被告とする東京大気汚染訴訟も提起されます。これらの裁判が進展し、健康被害との因果関係や国・道路公団の責任が認められていくにつれて、大都市部などでの自動車公害対策も強化されることになりました。ここでも、公害被害者の異議申し立てが対策を前進させてきたことがわかります。
バブルの影響と環境問題の国際化
ところで1980年代以降の公害・環境問題を考える際、バブルの影響は無視できません。米国は、日本の国内需要と輸入を増大させるため、1985年のプラザ合意で、円高ドル安への協調介入、低金利政策、公共事業の積み増しなどを日本政府に約束させました。これによりいわゆるバブル景気が生じ、そのもとでさまざまな環境問題が発生しました。
低金利のもとで豊富に供給された資金は、株・土地の投機へと向かいました。高層ビルの建設やリゾート開発などが全国各地でなされ、まちの景観破壊、自然破壊が進行しました。また、日本経済の公共事業依存もさらに進みました。
円高によって輸入が増加し、大量消費型の生活様式は、貿易を通じて海外との結びつきを強めました。その結果、人々の消費生活は、海外の環境問題と強い関係をもつようになったのです。象徴的な事例として、日本がエビを大量に輸入することにより、養殖池造成のために東南アジアなどでマングローブ林の破壊が促進されているという実態が告発され、多くの関心を呼んだことが挙げられます。
バブルは数年で崩壊し、日本経済は長期不況へと入っていきます。しかしその後も、小泉政権下で進められた都市再生政策などにより、都心部の再開発が進み、景観形成やまちの文化にも悪影響を及ぼしました。
また1990年代に入るころから、気候変動やオゾン層破壊、前述した国際貿易に伴う環境問題や、日本企業の公害輸出などが「地球環境問題」として注目を集めるようになりました。これは、環境問題の加害‒被害構造が国際化し、地球規模にまで広がったことを示しています。
地域から「緑の社会変革」を
国内外で異常気象や災害が頻発しており、将来世代だけでなく現在世代にとっても、いまや気候変動は人権問題になっています。気候危機を防ぐために、社会経済システムの大きな変革が求められます。既存技術でできることも多いとはいえ、生産設備や各種インフラの大転換が喫緊の課題となっており、民主主義的意思決定のあり方までもが大きな変革を迫られているのです。あらゆる領域で「緑の社会変革」が不可欠です。
司法を通じて温室効果ガスの排出削減などを求める「気候訴訟」の運動が、いま世界に広がっています。日本では制度上の制約による困難もありますが、戦後の公害問題と同様に、こうした市民の運動が「緑の社会変革」に向けた原動力であることは間違いありません。
地球規模の問題に対しても、自治体の果たすべき役割はむしろ大きくなっています。足元の地域から、先進的な取り組みを生み出していくことが強く求められています。
【主な参考文献】(本文で言及したもの以外)
- 柴田徳衛・中西啓之編『クルマと道路の経済学』大月書店、1999年。
- 庄司光・宮本憲一『恐るべき公害』岩波書店、1964年。
- 寺西俊一『地球環境問題の政治経済学』東洋経済新報社、1992年。
- 保母武彦『公共事業をどう変えるか』岩波書店、2001年。
- 宮本憲一『戦後日本公害史論』岩波書店、2014年。
- 除本理史・大島堅一・上園昌武『環境の政治経済学』ミネルヴァ書房、2010年。
